パリからです

2014年5月16日 (金)

デユポン エ デユポン パリへ行く

僕と溝淵仁啓は4月末からパリにいる。

二人で作ったユニット デユポン エ デユポンのCD第一章
のレコーデイングのためにパリに帰った。
言い方がややこしい。
僕は”帰った” になるが溝淵さんは”行った”と言う。
それはともかく、僕たちはパリでレコーデイングを行った。
僕の日本初のCD恋の病の時、ミュージックデイレクターを
努めてくれたフランソワ・ロゼの監督のもとで、
同じく恋の病でギターを弾いてくれたルシアン・ゼラッド
がレコーデイングエンジニアとして卓を握って
録音された。
面白いことに僕はいつもパリへ戻ると
一度も日本で住んだことが無いように
身体ごとすっぽりとパリに戻ってしまう。
もちろん家もあり税金も払ってるれっきとした
パリの住人なのだが、
誰かに ”ワサブローさん、日本に帰ったり、
日本で歌ったなんて、みんな嘘で、
夢見はっただけやと思うわ” と言われたら、
あーそうですか、そうやね、やっぱり夢見てたんやね
と本気で思い込んでしまうくらいパリは身体から離れない。
きっとそれだけ青春を過ごした街は
身体にすべての時間をしみ込ませて一生消えないのかもしれない。
まさしく アーネスト・ヘミングウエイが”移動祝祭日”の中で
書いている ”もし 君が、幸運にも青春時代にパリに住んだとすれば、
君が残りの人生をどこで過ごそうとも、それは君についてまわる。
なぜならば、パリは移動祝祭日だからだ”(高見浩 訳)
そうであれば、僕はヘミングウエイの言う幸運者の一人
と言うことになる。
確かに幼少年時代をどっぷり京都で過ごしたにも
かかわらず、それらの日々は思い出の彼岸の向こうに
靄って見えているが青春時代は色鮮やかに
目の前にいつでも蘇ってくる。
話が横道にそれてしまったが、
そんなパリでレコーディングをした。
もちろんパリでのレコーデイングは初めてではない。
今手に入る5枚の僕のCDのうち1枚は全曲パリで
録音し、もう一枚は半分をパリでもう半分は
ベルギーのブラッセルで録った。
でも今回のこのレコーデイングは今までのどのCD
とも違っている。
奏者は僕と溝淵仁啓二人しかいない。
ギターと歌の完全なデユオで
それもすべて同時録音にした。
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同時と言う意味がお分かりにならない方もおられると
思うので、ちょっと説明をしておくと、
録音に際しては楽器の数だけチャンネルを分けて
歌とは別録りをして出来上がったカラオケの上に
歌を被せて録る場合がほとんどで、
楽器と一緒に録ることはまれである。
一緒に録ると誰かが間違えば最初からまたすべて
やり直さねばならない。
結構リスクの多い録り方なのでワンテイクで録れるほど
余程自信のある方か
予算に糸目が無い場合のみと言うことになる。
今回の僕たちは少しの自信はあっても
余程の自信というものはなく、何よりも
予算に大小の糸目が毛細血管のように
張り巡らせてあるので
普通ならば今回のレコーデイングは
先にギターを録りその上に声をのせる
作業になるはずだが僕たちの音楽は
二人で一人、究極の弾き語りを目指している、
のでコンサートのように弾き、歌うことになる。
時の流れに
聞かせて下さい愛の言葉を
朝と夜
サンチマン
ユカリ
僕たちの恋が残したもの
など10曲を録り終えた。
今回のスペシャルバージョンは
サンチマンと僕たちの恋が残したもの
は僕の親友のフランソワロゼとデユエットです。
朝と夜は僕の歌にフランソワの詩の朗読が入ってます。
そして一番のスペシャルはなんと!秋(矢川澄子詩、
矢野顕子曲)の中では一節溝淵さんとハモっています。
乞うご期待!
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今秋にはCDにして皆さんに聴いていただける
と思います。
終わってほっとして今日は一日オルセー美術館
で好きな絵を見て溝淵さんと一緒に過ごしました。
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2011年12月13日 (火)

ルーアン

10日前はフランスのルーアンRouenで歌っていた。
ルーアンはフランス西部に位置し、
オート・ノルマンディ地方にある。

中世の古い都で街の中心に建っている大聖堂は
フランスのゴチック建築の代表的な建造物で、
モネが1892年から93年にかけて
描いたモネ中期の連作の主題にもなり、
パリのオルセイ美術館にも数枚が展示されているので
ご覧になっている日本の方も大勢おられるだろう。

1431年、百年戦争で捕虜になったジャンヌ・ダルク
が火刑に処された場所でもある。

この街にあるトリアノン・トランスアトランチック
という劇場でラ・コンパニー・デ・ミュージック・
ア・ウイール la compagnie des musiques a ouir
の公演オー・ブリジットがあり僕は11月初日の南仏の街
ヴァランス同様出演して歌って来た。

オーーブリジットはフランスでは特殊な位置に
おかれている詩人で歌手のブリジット・フォンテーヌの
作品集であって、それぞれの作品を
ミュージック・ア・ウイールのミュージシャンたちが
リメイクしてとても面白いテーマコンサートに
仕上がっている。

今回はバンマスでパーカッションニスト、
それにトロンボーン、トランペットを吹き,
歌まで歌うドニ・シャロルを筆頭に
吹奏楽器をいくつもこなすジュリアン、
アコーデオンにアコースチックとエレキギターを弾いて
これまた歌も歌うクロード、そして
鍵盤楽器のアントナンの4人のミュージシャン
に加えて、歌手のジョスリーヌ、オリアンヌ、ブール、
女優のマリエットとクロードそれに僕と総勢10人の
出演者が歌ったり詩を朗読したりインストで2時間の
ステージになっている。

フリジット・フォンテーヌの歌の世界は70年代の
コム・ア・ラ・ラジオに始まりどれも世相を反映しながら
時には言葉遊び,
時には言葉の裏に幾つもの文学作品からの
抜き出しがなされていて,まるで万華鏡を覗くように
面白い。そして音楽的にはバロックあり、ロック、ジャズ
ヒュージョンからクラシックなシャンソンまでが一づつの
作品として出来ているのでフリージャズを得意とする
今回のミュージシャンたちには最適の主題だ。

この素晴らしいミュージシャンたちが色んな角度から
これらの作品に色を加え、形も変えた歌を、
僕たちが歌い、演じ、
また朗読するのは至難の技がつきまとうけれど
最高に楽しくまた演じがいのあるものにもなる。

僕は大好きな田園交響曲を始め僕のファンの方は
よくご存知のヌガ、そして
君に作ってあげた子供をアコーデイオンのクロードと
ヂュエットして中庭も歌い、いくつかの他の歌にも
コーラスで歌って、緊張のなかで楽しい時間だった。

僕はこのミュージック・デ・ウイールが大好きで
5年程前から幸せにも1年に1度か2度はフランスで
一緒に共演出来る機会をもらっている。

一度彼らとの共演のステージを日本の方々にも
見て頂きたいがその機会を待ちながらルーアンでの
いくつかのショットをご覧になって
想像して頂きたい。


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2011年12月12日 (月)

高遠へ来年歌いに行きます。

信州伊那の高遠町に行った。
念願の高遠の地に足がついたとき<ああ!やっと>
とため息が漏れそうになった。

先日パリから東京に着いてテレビの仕事のあと、
一人で電車に乗った。

途中車窓から富士山が美しく見える。

どうしても行きたくて仕方がなかった、
望みが叶った。

30余年パリに住んでヨーロッパは勿論、
日本とフランスを、パリと京都を何十回と
往復している僕が旅行嫌いだと
言っても信じてもらえそうにはないが、
実は旅行は好きではない。
それが電車であっても、ましてや
飛行機となると余計に億劫になる。

あれこれ準備する物や、ホテルの予約、
電車の時刻や座席の予約などそれだけで
気分が憂鬱になり行きたくなくなる。

そんな僕がどうしても伊那の高遠に
行って見たいと思った。

2011年1月17日付けのブログでも書いたが昨年の夏
島村利正という作家を知って以来、
日本語の本は島村利正のもの以外読まなくなった。

それほど好きになり、頻繁にやって来る
酷い鬱症状の時にも島村利正を読む事で救われた。

僕にとっては座右どころかお護りのような
存在となった、島村利正にお礼が言いたくて、
今年の春には狛江にあるお墓を訪ねたが、
今度は庭の千草などいくつかの作品に
描かれている故郷の高遠の町に行ってみたい、
という思いにとどまらず、そこで歌いたいという
突飛様しな思いを持ってしまった。

もちろん、これは僕にとって、僕が頂いている
幸せな時間のお礼を島村さんに何かの形で表したいと
の思いが高遠で歌いたいという思いと繋がったのだが。

隣の街松本市にこれまた35年ぶりに
再会したパリ時代の友人が住んでいる。
彼とも会える機会と考えて、
高遠で歌うという僕の心の最大イベントの
実現を目指して出掛けた。

松本には友人がいる。
そして伊那には北原先生という小児科の先生が
おられる。
島村利正の本を読んで間もなく
この作家のことをもっと知りたくて
ネットで探している時に偶然この北原先生
がブログに書いてられる島村利正に関する
文章に出会った。

この北原先生はご自分のクリニックで
子供達の身体と心の病の治療に文字通り全身全霊で
取り組んでおられる。

絵本の読み会や音楽会なども
催され、僕が近くに住んでいれば
パリのドクター・ベルジャンスと同様に
主治医として診て頂きたいと思う先生である。

僕は北原先生のブログにコメントを書いて以来、
何度か個人的にメールのやりとりをさせて頂いた。

その先生のしろくま通信の一読者でしかない僕が
厚かましくも先生を頼って信州伊那に出掛けた。

その日は本の読み会をなさる日で午前中に家を
出られる予定にされている事を知りながら
押し掛けて行った。

勿論長野にいる友人も巻き込んで、彼の車で
連れてもらった。
無礼な訪問者を先生は家に迎えてくださり、
僅かな時間ながらお話しが出来た。

そして何と高遠におられる北原先生のお兄様が-
同じくお医者様で、同じ北原先生である-
高遠での僕の案内役をひきうけてくださった。

僕は島村利正の実家に寄せて頂き、甥の島村正登氏に
お目にかかった。
昔の海産問屋は現代風な店になっていた。

お隣の華留運ケルンという面白い漢字をあてた
お蕎屋さんに連れて頂き信州のとびきり美味しい
おそばをご馳走になり、蓮華寺にある島村家の
お墓参りも出来た。

この蓮華寺には江戸時代徳川家継の大奥、大年寄り
であり、陰謀事件に巻き込まれて高遠に流され、
座敷牢で一生を終えた絵島のお墓がある。

島村利正はこの絵島が籠に乗せられ、江戸を出てから
61歳の生涯を終える24年間を当時のルポルタ−ジュの
ごとく、候文で綴っている。

まるで僕も絵島に付き添ってその長い日々を生きた様な
気分になり本を閉じた。
罪人として一生を座敷牢で終えた絵島の、人としての
尊厳が彼女の流れ行く厳しい時をささえている素晴らしい
文章である。

紅櫻の名所、高遠城の城址公演の南に近代的で美しい
信州高遠美術館が建っている。
折よく斎藤清の版画展が開催されていた。

館長,副館長にもお目にかかれる事ができて、
なんと、来年6月にこの美術館でのホールコンサートを
決めて下さった。

僕の心の一大イベントが実現する!
2012年は奇しくも島村利正生誕100年の年である。

6月は蛍が飛ぶ時期で高遠の隣町の辰野市で
大変な蛍の乱舞が見られるらしい。
同じならこの時期に歌いたいと思って計画を
練っている。

何があってもこの日までは生きていたいと
願いながらの楽しみの日々が始まった。


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2011年12月 1日 (木)

パリ

パリは昨日も今日も曇って寒い。

4年ほど前から僕はラ・コンパニ・デ・ミュージック・ア・ウイール、
La compagnie des musiques a ouir という、長い名前の
フランス人のミュージシャングループと年に1,2度一緒に
仕事をしている。

場所はパリだったり、フランスのほかの街だったり。

彼らはフランス製フリージャズにロックの空気が混ざった
音楽に時として詩的シャンソンを加えて
とってもユニークな世界を創っている。

打楽器に吹奏楽器それに鍵盤楽器、
4人のミュージシャンは
1人で少なくとも3つの楽器を演奏する。

発想がユニークで演奏はすこぶるうまく、
何とも素晴らしく面白い。

去年も一昨年もパリの劇場だったが、
今年はヴァランスという南仏の町で
一週間国立劇場を借り切ってコンサートを
1つ立ち上げた。

初日を終わって僕は
NHKのお昼の生番組で歌うために
東京に戻り、そのあと銀座のマキシムで
ディナーショーをすませて、また
パリに帰ってきた。

先月立ち上げたショーを今回は
ルーアンRouenの街で演じる。

ミュージシャン四人に歌いてが三人と
舞台女優が1人。
ブリジット・フォンテーヌの歌をリメイクして
演奏と歌と詩の朗読がある。

僕は4曲のソロと数曲コーラスにも加わっている。
ブリジット・フォンテーヌの歌は絵に例えれば、
印象派とキュビスムにシンボリスムが混ざった
ような歌を作って歌うフランスのシャンソン界でも
結構な異端者、難解かつ詩的な歌をいっぱい作って
歌っている。

日本の方に聞いていただけないのが非常に
残念だ。
とても面白い1時間45分に仕上がっている。

僕は田園交響曲、僕が君に作ってあげた子供、
ヌガそれに中庭の4曲を歌う。

そうです!
僕の歌うご存知、ヌガの作者です、
ブリジット・フォンテーヌは!

明日、ルーアンに行く。
モネが描いた大聖堂と火あぶりの刑に処された
ジャンヌダルクの街である。

その時の模様はまた帰ってきたら書きます。

今回は新しい歌が1つあってまだ頭にきっちり
入っていないので、これから少し練習を
しなければ。

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2010年5月 3日 (月)

フランスの春

僕は寒いのが大の苦手でとにかく暑ければいいという
人に言わせれば、特異体質のようで、
冬の後ひたすら春を待っている。
今年の様に寒い冬がいつまでも居座っていると
心まで冷えていくようで大変辛い。

昔はフランスと日本の温度差、季節が廻る速度は
少しづつずれていた様に記憶しているが
この頃は同時進行で季節が移ろう様に感じるときが多い。

今年の日本の寒さはパリも同じで皆口を揃えて
今年の冬は厳しかったと言っている。
そういってもパリのアパートは部屋全体が
、セントラルヒーティングでなくても暖かくしているので
家の中にいて足下が芯から冷えてくる様な
寒さを味わった事は無いが日本は寒い!

特にいま住んでいる僕の京都の家は古い町家なので
どことなく入ってくる隙間風が常にあり、
もちろん家全体を暖める事は不可能なので
体全体で家の中にいながら<冬>を一杯感じて
くらすことになる。

とびきり寒く凍り付いた東京を飛び立って
パリに戻ってみると思いのほか暖かくて
久し振りに気持ちのいい4月だった。

30年もパリに住んでいる僕の記憶では
4月にパリでTシャツ1枚で過ごせた年は
1、2年しかなかった様に思える。
なぜ記憶に残っているかと言えば
1981年に初めてプランタン・ド・ブールジュ
というフランス最大の音楽祭に出演した。
4月初旬でフランスの中央に位置する古都、
ブールジュの街はいつもの静けさが嘘の様に
ヨーローッパ中から来た人達で溢れていた。

素晴らしく気持ちのいい気候で初夏を感じる
青空の下、この寒がりの僕がTシャツ1枚で
スタジオやインタビューに答えていたのを
覚えている。
それから5回も同じフェスティバルに出演する機会を
得たが、毎回雨が降ったり、晴れていても寒くて
一度もTシャツ1枚で過ごす事は無かった。

勿論年齢の差もあるだろうがここ25年来
世界中の気温はきっと安定しなくなっているのだろう。

僕は35年前に初めてフランス生活を始めたとき
2月に行ったので寒く、曇り空しか見えないパリの
毎日で気持ちも曇りがちだった。

4月になると空気ががらりと変わり
街にある寒々とした木々に緑の若芽が吹き出し
町中がキャンバスのごとく、そこに思いっきり
春の色彩で絵が書かれたように日々緑が溢れ出し、
見る見るうちに,マロニエやリラの花が咲き乱れて
素晴らしい光景が目の前に広がった。

日本では目にした事の無いまさに<春>の
到来であった。
それ以来僕にとって<春>のイメージは
パリのこの花々と一体になっている。

今年はSceauxという古くからの街にすむ
友人の家に長く御邪魔しているのでこの街
にある古い家々に囲まれて暮らしている。
この街の春は,リラとマロニエとそして
家の門に這う様にして咲き乱れる藤の花である。

リラとマロニエはきっと日本の皆様もフランスの
イメージとして持ってられるだろうが,藤の花は
以外ではなかろうか。
僕は初めてフランスでこの光景を目にしたときは
とても驚き,そのときこの藤の花、Glycine de chine
というフランス語も同時に覚えた。

僕にとっては藤の花は最も日本的なもので
特に日本舞踊家だった母の影響で長唄の藤娘と
芳村伊十郎の素晴らしい歌声と共に藤の花は
頭の中に収まっているので、
フランスでこの花が好まれ,特にブルジョワの
家には古くから紫と白の藤の花が植えられている
のを目の前にして不思議な違和感を覚えた事を
思い出す。

今年もこのsceauxソーの街にある旧家の
門の前には紫と白の藤の花が咲き乱れている。
今日僕はパリの14区に出かけたが
そこの京都の路地の様な一角にも藤の花が
美しく咲いていた。
この路地は良く撮影に使われるので
ご存知の方もあるかもしれないが
写真を撮ったので載せておく。

ちなみにフランス語での藤の花Glycine de Chine
は中国の藤という意味で,フランス人に言わせると
藤色のは中国産で白は日本産らしい。Image_5

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         【ソー市の家の前の藤の花】

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2010年5月 1日 (土)

パリは晴天なり

4月22日にパリの18区であったフェスティバルに
よばれて歌った。
日本でもファンの多いブリジット・フォンテーヌの歌の
夕べとでも言うのか,フォンテーヌの歌を歌うという
フェスティバルでフォンテーヌと良く仕事をしている
ドニ・シャルルたちから招聘を受けて歌いに行った。
Au Lavoir Moderne<オラヴォワールモデルヌ>は
下町でアフリカ人たちの多い18区にあるこじんまりとした
劇場で名前の通り昔は洗濯場だった。

丁度この辺りはゾラの<居酒屋>の舞台になったところで
19世紀のその頃はアフリカ人はいず、フランス人ばかりの
下町だったところで主人公のジェルベーズは洗濯屋で
知り合いの女性とつかみ合いの喧嘩になる場面も
洗濯場で,ひょっとしたらこの洗濯場が舞台になっている
のかも知れないと思う様な不思議な世紀末を感じさせる
場所だった。

ドニ率いるLa compagnie des musiques a ouirの4人の
素晴らしいミュージシャンと共に僕ともう二人の男性歌手
が出演した。100人弱の椅子に140人くらいの入りで、
椅子からはみ出た人達はめいめいに床に座ったり立ったり
していて,パリならではの自由な空気が会場全体を被っていた。

僕はブリジットフォンテーヌの歌3曲のほかに
佐藤春夫の詩に小椋佳が曲をつけた<海辺の恋>を日本語で
歌ったほか久し振りに僕のオリジナルでフランスでは
良く歌ったこのある<はげたかの子守歌>も歌った。

パリでのコンサートの雰囲気はきっとやった事のある人にしか
わからないと思うが日本でのそれとは全く違っている。
とくに今回の様なちょっとアバンギャルドな世界を持っている
ミュージシャンたちとの共演となれば少なくとも
僕は日本で同じ雰囲気を味わった事が無い。

このドニ・シャルルというバトラーは即興現代音楽や
ジャズフュージョン、ロック、それにシャンソンなどを
混ぜ合わせた不思議で魅力的な世界を持ったミュージシャンで
一緒に演奏する人達もいつも意見風変わりでありながら
素晴らしい人がいる。
今回もジャック・ディドナトという素晴らしいクラリネット奏者
が一緒だった。

ドニの仲間に入れてもらえる事は,僕としては大変嬉しい事で、
フランス語で生きた音楽を歌っているという証しにもなる。

今回も大勢のフランス人たちに次はいつ歌うんや、と聞かれて
次は日本で歌うので,日本に来てくれんとあかんわ!
言ったら,行く行く!って叫んでくれて,嘘でも嬉しいわと
返しておいた。

また、結構近々パリで歌う事にもなる予定なので
やっぱりいつまでも行ったり来たりは続きそうだ。

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2009年9月 2日 (水)

リーガロイヤルホテル京都でのディナーショー

1年は早い!
この間前回のリーガロイヤルホテル京都での
ディナーショーに皆さん、どうぞ来とおくれやす、と
書いた様に思えるのにもうあれから1年経ってしまった。

今年は9月29日に行う事になっている。
1991年に始まって以来今年で18年目を迎える。
18年もの長い間、毎年リーガロイヤルホテル京都さんは
僕をパリから招聘し続けて下さった。
これはきっと希有な事だろうと思う。
スターが毎年何十年に渡って同じ催しものに出る
ことはあるが僕はスターではなく一人のアーチストである。

以前パリで、フランスの有名な女優が記者にスターと
呼ばれたことに気を悪くして、
”あなた、私はスターじゃなくて、アーチストなのよ!”
と、むっとして言ったら、その記者は
ぴんとこなかったようで、”あのー、スターとアーチストは
違うんですか?”と尋ねた。
その女優は、うんざりした顔つきで ”あのね、スターは
1日で作られるけれど、アーチストは長年かかってやっと
出来るものなのよ!”とさらっと言ってのけた。

スターシステムが大きく幅をきかせている
日本の音楽の世界ではスター以外は存在の場所を
見つけるのが難しい。
フランスの音楽界も多いにスターシステム化されて
来ているので、それを皮肉って女優は言ったのだけれど、
それでも、まだアーチストの出番は多くある。

そんなアーチストの出番の極力少ない日本の音楽界
で僕はデビューして3年経った。
今まで全く知らなかった日本で歌手であることの
難しさを知り始めている。

ディナーショーというものは元来スターを見に行くもので
アーチストとは全く無縁の場であろう。
そんな場に僕は17年間招聘していただいた。
今年も29日に大役が待っている。
18年経ってもきっと京都で僕をご存知の方は
ほんの数百人だと思う。
その中から何人の方がアーチストとしての僕、
ワサブローを聴きに来て下さるか、毎年
とても不安になる。

ことしも当日、誰一人お客様のいない大広間の悪夢に
うなされ、始るまで、異空間に大輪の花火を
見事にあげられるか、震えて本ベルを待つに違いない。

今年は今売り出し中のマレットピットの若い兄弟が
マリンバとビブラフォンの素晴らしい演奏と僕の歌の
伴奏を聴かせてくれる事になっている。

プログラムは10月に発売される新しいCDの中の
与謝野晶子や茨木のり子の歌を中心に歌おうと思っている。
もちろんフランス語の歌もそれにお話も(日本ではトーク
というらしい)。

17年間や、ほぼその年月に近く毎年来て下さっている
方もおられる。本当に嬉しくまた有り難い。

どうぞ今年も皆様大勢でおいでやしとおくれやす!!
お会い出来る事を心より楽しみに待っております。

申し込みまだの方、今すぐネットでもどうぞ!!

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2009年8月30日 (日)

映画 ゾラの生涯

ゾラの居酒屋を読んでブログを書いた後で
ゾラに関する映画を見たくなって、探したら
アメリカ映画で”ゾラの生涯”というのが見つかった。
早速DVDを借りて来て観た。

1937年の作品で監督はウイリアム・ディターレ、
主演のポール・ムニがゾラを演じている。
この映画は同年のアカデミー賞作品賞を含む
3部門で賞を獲得している。

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まあ1930年代の映画なのでそれなりにすべてが
古い事はともかくとしてアメリカ映画なので
セットもすべてアメリカで作られているからか
僕がそういう先入観で見るからか
何となくフランスが感じられない。
まず何よりも出演者のすべてが英語を話して
いるのが日本の時代劇映画を英語やフランス語の
吹き替えで観ている様な違和感が大きくて、
それが僕にとっては残念で、真実みを何となく
薄れさせた。

映画としては何度も楽しみたいと思う様な作品では
なかったが、この映画の中心になっているのが
ゾラが命がけで軍部を暴いて無実を叫んだ
<ドレフュス事件>で、脚色はされていようとも
その当時の事件の成り行きがよく解っておもしろ
かった。

ゾラがこの映画の中のような人物だったかどうかは、
その筋の研究家に聞いてみたいところである。
原題はThe Life of Emile Zola

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2009年8月29日 (土)

黒田憲治訳 ゾラ 居酒屋

僕はこの1週間自分の住んでいるパリの街が
突然19世紀末に逆戻りをした様な気分で毎日を過ごした。
エミール・ゾラが書いた居酒屋を読み始め、
話の流れに引きずられ、飲み込まれて5日間
パリ10区から18区の界隈を本の登場人物と共に
生きた。
なんでまたゾラの様な古典を読んでいるのかとご存知の方は
思われるでしょうし<ゾラ>? 何やそれはと思われる方もある
特に日本の若い方にはなじみのない名前かもしれない。

エミール・ゾラ〜emile Zola はヴィクトール・ユーゴと並んで
19世紀のフランスの代表的な作家であり
自然主義を提唱した。
代表作品は<居酒屋><女優ナナ><ジェルミナール>など、
ユダヤ人弾圧に関する<ドレフュス事件>で<私は弾劾する〜
J'accuse!>と言う見出しの公開質問状を新聞の一面で当時の
首相に叩き付けたことでも有名。

Manet_zola
マネが描いたゾラの肖像画をご存知の方も多いと思う。
多くのゾラの作品は映画になっていて、
大正時代から戦前戦後にかけての日本文学にも影響を与え
フランス文学に興味のある人には
きっと必読の書だったに違いない。

その100年前に書かれた作品を僕は日本語訳で読んだ。
フランス語で書かれているものはすべて原語で
読んでいるのに今回は違った。
居酒屋の翻訳者は黒田憲治、1962年に
37歳の若さで亡くなった京都の仏文学者で、
僕が3年前に偶然再会した小学校の同級生の父親だった。
僕自身フランス語で生きて来たという事もあって
友人の父がどんな仕事をしていたのか
一度は作品を読んでみたいと思っていた。

黒田憲治夫人、つまり僕の友人のお母様はご健在で、
それも素晴らしく、美しく、気高く、上品でお優しい背の
すらっと高い女性で僕はお目にかかって以来、
大ファンになり、京都の家が近い事もあり
京都にいるときはちょくちょくお邪魔している。
ある日お話の中で<居酒屋>の話になり、
これが機会と河出書房から出版された本を
借りて帰った。

すぐに読むつもりがレコーディングの時期に重なり、
大事に仕舞い込んでそのままになってしまっていた。
そして返す時期になった今、急に読みたくなり
本を手に取った。
本の内容が19世紀半ば、パリの下町に生きる
労働者階級の人々の日常を赤裸々に描いたものである事は
知っていたが400ページを5日間で読める自信はなかった。
特に昔の翻訳本は文章が必要以上に難しいものが多くて
なかなか読むのに苦労するという印象を持っていたので。
でも読み始めるとこれがどんどんと読み進んで行き
毎日寝る時間をオーバーしてもやめるのが難しかった。

1315

主人公は田舎からパリに出て来た若い洗濯女で、
出会った男に、そして運命に翻弄されて落ちるところまで
落ちて最後には一人で7階のぼろアパートの一室で
死んで悪臭が漂いやっと近所の人が見つけるという
救い様のない、でもその当時のフランスの労働者たちの
実情をゾラは見事に描き、それを黒田憲治は素晴らしく、
優れた同時通訳の様な形で日本語訳を書いているので
映画の吹き替えの様な奇妙な違和感もなくフランス人
が喋っているフランス語が僕の頭のなかで日本語に
自然に変わっているように読める。
以前川端康成の”名人”をパリでミッシェル・ブーケ
の芝居で観た時、もちろんすべてフランス人が演じている
のに観終わった後、全部日本語で演じられた様な
奇妙な感覚に陥った経験がある。この本も同じような
気分がした。

ずっと心の何処かに引っかかっていたゾラが黒田憲治のお陰で
日本語で心から味わえた。その上に僕にとっての幸いは
この居酒屋の舞台がパリの9区〜18区の界隈で
まさしく今僕が住んでいるrue du faubourg poissonniereの
エリアになるので主人公が歩いている通りや病院も
手に取る様にわかる。
そのため、様々な登場人物も時代は違っても今もここかしこ、
パリにいる人々に当てはめるだけで衣服を替えればすんなりと
想像ができ、まるで僕が19世紀半ばのパリに生きている様な
錯覚に陥ってしまった。

僕もフランス語を勉強して身につけた者として
翻訳という仕事がどれだけ途方もなく厄介で、難しいものか
よく知っているので、この居酒屋がどんなに大変な仕事
だったか想像がつく。それゆえにこの翻訳の素晴らしさが
全身震える様に身にしみてくる。
黒田憲治は肺結核を患い助骨を何本か失った。闘病しながら
訳し終わりその数ヶ月後、出版と同時に亡くなっている、

僕は読み終わって本を閉じると同時に自然に京都の黒田家の
方に向かって頭を下げた。
素晴らしい仕事を残して逝かれた友人の父、黒田憲治氏に
感謝と畏敬を捧げたい。

10区ポワソニエール通り界隈の地図
http://paris.9.evous.fr/Rue-du-Faubourg-Poissonniere,030.html#carte

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2006年11月 8日 (水)

パリへ戻りました

数日前にパリに戻って来た。
日本からの出発の際関空からのフライトだったがチェックインカウンターでまず驚いた。フランスの国内便に乗る時の様に列を作っている人の8割はフランス人でしたがっていつもよりその場がずっと騒がしかった、列に並びながらみんなめいめいに連れ立っている人と喋っているのである。聞こうとしなくても
会話が耳に入ってくる。大方はみんな始めて日本を訪れたフランス人ばかりの様で滞在期間もそう長くなく帰国日のこの朝もまだ興奮さめやらずという感じで日本での印象があれやこれやと話題に上がっていた。賑やかな彼らのおしゃべりの狭間にいながら昨年日本に戻った折免許所の更新に出かけた時の事を思い出した。朝早く、恐ろしい人数の列が出来ていて、その後部の方に友人と二人で並んだ。列は少しずつしか進まない上に寒くって黙っていると凍えそうなので友人と話し始めた。もちろん僕にとって久しぶりで会う友人なのでつもる話がある。楽しく話が弾み始めた時に前に並んでいたおっさんがくるりと僕の方を向き<べちゃべちゃとうるさいな!黙らんかい!>とひどい剣幕でどなりたてた。確かに辺りをうかがうと誰一人喋ってはいない、お通夜に参列した時の様に静まりかえっている。お通夜でもすすり泣いている方もおられるし読経も聞こえるのでこんなにも静かではないと思うくらい皆押し黙って死刑台に向かう様にただ黙々と前に進んでいる。この重苦しい雰囲気がおっさんの一言でぱっと華やかになったように思えたが僕としては納得がいかない。何で喋ってはいかんのか?何処に不都合があるのか全く理解出来なくて、そのうえにおっさんの言い方が気に入らない。第一知らない人に向かって失礼である。今まで僕は親にでも<黙らんかい!>などと汚い言葉でののしられた事は無い。壁に禅寺の拝観の際時々目にする<沈黙>という張り紙でも貼ってあるのかと見回したが見当たらない。おっさんはこの一言を僕に浴びさせてくるりと正面を向き何も無かった様にして列は黙々と進んでいる。僕はおっさんの肩をたたき<すんまへんけど、なんで喋ったらいかんのどす。こんな寒い中じっと黙ってたら凍り付いて窓口にたどり着いた時は更新手続きでなくて死亡手続きに変わっているかもしれまへん。きっとさっき僕が昨日食べたフランス料理がいかに美味しいてその一品づつがどんなに繊細に作られていたかなど微に入り細に入り説明したのがお気に召さへんかったんどっしゃろ。けなりい(うらやましいという京ことば)思いさしてすんまへん。今からフランス語で喋らしてもらいますわ。これならきっと内容はお分かりにならないと思いますのでイライラもせんですむと思います。気がつかん事ですんまへん。始めからそうしたらよろしおしたのに。>とフランス語でまくしたててとなりの友人の顔をみたら蒼白になって僕の服の袖をぐ〜と引っ張っている。おっさんはあっけにとられた顔で僕をみていた。もちろん周りも、である。<なんや、外人か!>と捨て台詞を残しておっさんはそっぽを向いてしまった。この時の事が余りに鮮明に記憶に残っているのでこの出発の日の関空でのチェックイン風景にこの出来事が思い出された。細かな日々の時間の中で30年フランスで生きていることの違いに日本で出くわし戸惑ってしまう事が少なからずある。
機内もやはり8割フランス人でシートベルトの着用サインが消えると後部のスペースは談話室のようになり多くの人が数人づつ集まって喋っていた。これも日本人ばかりのフライトだと見られない光景である。
パリへ着くと驚く程寒い。
日本での数日前までの暖かさが信じられないくらいの寒さで道行く人々はみんなコートを着てマフラーを捲き手袋をはめている人さえいる。
もうすっかり冬である。
長い憂鬱なヨーロッパの冬の始まりである。
あ〜〜とため息が出てしまう。夏が好きな、汗が身体にじっと〜〜としみいる夏が好きな僕には辛い季節の始まりで何十年こちらにいても慣れないものの一つである。
一夜明けて外へ出てみた。車の渋滞、クラクションの音、アパートの屋根屋根の煙突からかすかに煙が出ている。
近くの公園を通り抜けた。枯葉が地面を覆い、ブルーの作業服をきた人が熊手で枯葉をかき集めていた。枯れて地面に落ちた大きいマロニエの葉の周りに
マロニエの栗の様な実が散らばっていた。
カフェのカウンターには大勢の人が集い喋っている。みんなよく見る顔である。
ガラス越しの席に座ってキャフェ・クレームを飲んだ。
日本にいる間忘れかけていたパリが身体の中に少しづつもどって来た。
同時に日本が遠のいて行く気がした。

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