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2004年3月10日 (水)

画本 宮沢賢治

昨年友人の勧めで宮沢賢治の詩や童話が絵の世界の中で読めるとても素晴らしい絵本があると言われて賢治が好きな僕は興味を持ってその本を探しに出かけた。
横21,5センチ縦30センチのその絵本は懐かしい紙とインクの匂いがした。
手にとって表紙を見たとたんに<あっ!>と小さなため息が出た。最初のページの上に目は止まってしまい、僕はそこに突っ立ったまま動けなかった。
賢治の文章と一緒にその言葉のひとつ一つがそれぞれのページに流れ出て目に見える世界となって広がっていた。そこには風の、雨の、雪の音が聞こえ、森の、畑の、木々の匂いがした。僕はその本を抱えて急いで家に帰り薄明かりの下でどきどきする胸を押さえて本を開いた。黒板の前でこちらを見ている少年のまなざしに吸い込まれるように僕の身体全体はその開いた本のページの中に入ってしまった。
その夜僕は夢中で<銀河鉄道の夜>の汽車の中で一晩を過した。
このようにして僕は小林敏也さんの画本(えほん) 宮沢賢治と出会った。
賢治の作品が小林さんの絵の中で喋り、走り、笑い、動いている。小林敏也さんの絵は挿絵ではない。賢治の言葉に肉が付き形が出来て景色となり人となり青空や星や麦の穂が揺れる畑やドングリが一杯なっている森となって僕達の目の前に現れて来る。扉ごとに文字の色や大きさも変わる。ページをめくる楽しみがここかしこにある。賢治の言葉に読み取れなかったものが時には小林さんの絵の中に見つかる事もある。素晴らしい作品の数々である。
<どんぐりと山猫>を開いてみた。どんぐりの裁判の場面で山猫の大きい声に驚いて一瞬本を閉じそうになった。<セロ弾きのゴーシュ>が最後のアンコールを弾き終わった時大きく息を吸い込んで僕も拍手をいっぱいした。
窓をみんな開け放したゴーシュの家にいるように汗ばんだ身体に秋の蒼い夜風が気持ち良く草の匂いがつーんと何処からかした。
随分昔ギュスターブ・ドレの描いた<聖書>や<神曲><ラマンチャの男>それにファーブルの<寓話>を目にした時の驚きが蘇った。グレン・グールドの音楽を初めて聞いた時と同じようにこの画本は全部読んでみたいと久しぶりに気持ちが湧いた。1979年以来この賢治シリーズを創ってられる小林敏也さんに昨年(2003年)岩手県花巻市は<宮沢賢治賞>を贈呈した。この賞がどんなものかよく知らないが受賞を報じた新聞の記事を読み何だかとても嬉しかった。僕は昨年初めてこの画本 宮沢賢治の存在を知った。まだ1年しか経っていない。何という残念な事だろう!14年間もこの素晴らしい芸術作品の存在すらも知らずにいた。何というもったいない時間を過してしまったのだろう!多くの時間をフランスで生きている僕には誰もおしえてくれない限りこのようにこんなに素晴らしい事も知らずに過している。僕は昨年から日本へ帰国の度にこの本を2冊ずつ買ってフランスに持って帰っている。まだ5冊しか手もとには無く今年のように日本へ帰る機会の少ない年には僕のこの貴重なコレクションは増える事がない。寂しいけれど。。。
画本 宮沢賢治シリーズのどれを取ってみても唯1冊だけで昨今世間が賞賛しフランスでもヒットしているつまらない日本のアニメ映画の2時間をはるかにまさる素晴らしい作品である。このわずか数十ページ、少しの色使いの画本の中で人間の5感はすべて総動員され身体も走ったり歩いたり登ったり滑ったり身体中の血がくるくると頭から足の間を駆け回り筋肉も伸びたり縮んだり身体中が一緒にその時間を生きているのがわかる。
ボードレール曰く。
<目の前に見えているもののすべては幾つもの漠然とした姿と幾つもの記号の集合にすぎない。想像力というものがそれらにその価値と意味を与えてくれる。言うなればこれらの漠然とした姿や記号は想像力が同化し変化させる為に必要な食料のようなものである。そのために人間のすべての能力(感覚)は動員されなければならない。想像力が(目一杯その力を出せるために)それらすべての能力を必要とするので>
音楽もまた絵画の如しである。
この小林敏也さんの画本は僕達に頭と身体を総動員する楽しみを教えてくれる。
なんと貴重なそして気持ちのいい体験だろう!
次回日本に帰った時には<蛙の消滅>と<土神と狐>をきっと持って帰ろう。
いまからほんとうに楽しみだ。

小林敏也 画本 宮沢賢治 パロル舎
http://www.ehon.info/whoswho/ToshiyaKobayashi.html

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2004年2月24日 (火)

菅美沙緒

 さくらんぼ実る頃、懐しのうぐいす来て
 また歌うよ
 乙女達 陽の光に 輝きて歌うよ
 さくらんぼ実る頃 
 なつかし日を 偲ぶよ

少し古風な言葉使いのこの詩を僕は好きだ。
これは1867年にジャンバチスト・クレマンが書きその当時オペラをやめてミュージックホールで歌っていた歌手ルナールが曲を付けたフランスのシャンソン<さくらんぼの実る頃>の日本語の歌詞。僕の恩師菅美沙緒が書いた。
菅美沙緒、菅先生はいまパリのモンマルトル墓地に眠っている。
先生はあこがれ愛したパリを永眠の地に選んだ。
先生は戦前三浦環のもとでオペラを歌っていたが戦後間もなく日本に入って来た<より人間的な>シャンソンに惹かれオペラを捨ててシャンソンを歌うようになった。
僕はその頃の先生の事をあまり良く知らない。
僕が生まれる前、第二次大戦中に帝劇で先生が開いた2回のリサイタル(その当時は独唱会と言った)のうち1回は1943年2月22日、グルリット指揮の大東亜交響楽団伴奏及びグルリットのピアノ伴奏だったと<音楽公論>の1943年4月号は報じている。
もちろんこの頃のレパートリーはクラシック歌曲だったのだろう。
戦後のめり込むようにして歌い出した<シャンソン>には当然ながら日本語の歌詞は無く一曲一曲闇夜に小石を見つけるように手探りで日本語の歌詞を当てはめては1曲づつ歌える歌を先生は増やしていった。
この頃に先生が日本語歌詞を付けた戦前戦後のシャンソンで日本人はシャンソンという言葉と共にいくつものその当時のフランスのヒット曲を知りその日本語詩を歌うようになった。
聞かせてよ愛の言葉を、ロマンス、ラメール、さくらんぼの実る頃、私の回転木馬
紙の袋に入った冷たく重い78回転のレコードが針の音をきしませて回っていた時代である。
菅先生はこれらフランスの歌に19世紀末モンマルトル界隈のキャバレー、ムーランルージュやシャノワール、それにムーランドラギャレットの踊り子や歌手そこにたむろする娼婦達を描いた画家ロートレックの絵を重ねていた。
先生にとって<サセパリ>はミスタンゲットよりも長い黒手袋のイヴェット・ギルヴェールであり<さくらんぼの実る頃>はコラヴォケールよりも黒マントに赤いマフラーのアリスチッド・ブリュアンだった。
先生は1960年の初め東京から京都に居を移し二条城のお堀の前にある京都国際ホテルで菅美沙緒シャンソン教室を開いた。
その後1993年まで30年間に渡り好きなシャンソンの日本語詩を書き続けシャンソンに見せられた若い世代を指導しながら毎年フランス人や日本人でにぎわう<パリ祭>を催した。
僕はそのパリ祭が7年目を迎える年にひょんな事がきっかけでその<菅美沙緒シャンソン教室>に通う事になってしまった。
エディット・ピアフの歌に驚愕した想い出以外特別シャンソンに興味があったわけでもないのになぜそこに通い出したのかよく覚えていない。
ただ初めて見た菅先生には大人のそれもあまり今まで僕が知らなかった一風日本人離れしたシックで不思議な女性の魅力が漂っていた。
僕は19歳だった。
シニョンにまとめた髪、真っ赤な唇にダルメシアンの敵クロエラを思い出す魔女のような細くて骨張った2本の指の間に黒く細長い塗りの洋風煙管が挟まれていてそれがふわっと動くと赤い唇から出るタバコの青い煙が部屋中に広がった。
その日聞いた先生の歌に不思議な面白さを感じ次の週からレッスンに通うようになったのは<けったいなもの>に惹かれる僕の性格がなしたわざのような気がしている。
その日僕はこの日が僕の将来を決定的なものにし、この菅先生との出会いがその後の僕の人生をすべてを創っていくとはもちろん知らないどころかフランスに住み一生涯フランス語の歌とつきあっていくとは夢にも思っていなかった。
先生から無理矢理すすめられたフランス語は今僕の生活と職業の言葉になり、
先生から紹介されたフランス語の先生夫妻は僕の生涯の敬愛すべき友になり、
先生のシャンソン教室にいた女性は僕の妻となり、
先生を介して知り合った多くの人たちは僕の大切な友人になり、
その人たちの応援を得て今も僕は歌っている。
先生が無ければ僕には今フランスは無く、今の家庭は無く、今の友も無い。
先生に会わなければどんな人生を歩んでいるのかまったく今となっては想像も出来ないくらい僕は先生に今生きている僕の人生をすべてもらった。
その菅先生は今パリのモンマルトル墓地に眠っている。
墓石の上に<さくらんぼの実る頃、なつかしのうぐいす来て、またうたうよ>と園家文苑が書いた書が置かれている。
先生はパリを、先生の好きな19世紀末のパリを、自分の言葉にしたパリを
胸に抱いて眠っている。
僕が生きているこのパリに先生も眠っている。
不思議な縁(えにし)だ。
先生がシャンソンを歌っていなかったら僕は先生に出会わず、
先生に会わなければ僕はパリには住んでいなく、
先生もモンマルトルではきっと眠っていないだろう。

 若き日の心呼びて
 我一人 うたうよ
 さくらんぼ実る頃
 幼き日を しのぶよ

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2004年1月29日 (木)

フランソワ・ロゼの歌

フランソワ・ロゼの新しいCDが出た。以前彼はムシュウポールというバンドを作って歌っていたが今回はミュージシャンがすべて入れ替わり(アコーディオンのパトリック・フルニエは一緒)音の世界が随分変化した。
サックスなどが入って今迄の乾いた音から少し熱い音の世界になった。このアルバムのタイトルになっている<普通の男>はとてもおもしろい。僕も歌っている<ロワン河のほとり><朝と夜><君を忘れるために><時の歌>など作者自身の歌は僕とはまた違った色合いに出来ている。フランソワの歌はとても絵画的で彼が選ぶ言葉で織られるタピストリーのような世界である。ここが僕のような歌い手にとって歌っていてこよなく気持ちのいいところだが同時にハッキリした主題で歌が展開しない為、たとえば<世界に一つだけの花>のように誰もが居眠っていても理解出来るようなものではなくしたがってコマーシャル的には残念ながらあまり一般の多くの誰もがすぐに飛びつくようなものではない。ちなみにこの<世界に一つだけの花>こんな歌詞は幼稚園か小学校の子供達に歌って欲しい。それを30歳を過ぎたおっさんのグループが大きな声で歌うのを聞かなければならない程この国の人達は大切なものをなくしてしまったのかと悲しい。
フランソワの歌は聞こえてくる言葉のひだの中に分けは入りその中その後ろに隠れている別の意味や別のニュアンスを拾い聞き取らなければ歌の全体が見えて来ない。ある意味では他人の言葉に耳を傾け相手を理解して行く事と似ている。歌を聴きながら遊ぶパズルやルービックスキューブに似ている。一つのモチーフが出来上がるためにどれだけ多くのキューブやパズルが必要であるか。一つのつぼみが開き花になるためにどれだけ他からのエネルギーや魂が多く注がれていることか。ちょっと話が横にそれてしまったが僕はフランソワの書く歌が大好きだ。歌うとき絵筆を持って絵を描いているような気になる。モネのように色んな色が光の中で溶け合いその姿が見えないくらいになる時や雨の中を歩くカーユボットのシルクハットの紳士、<君を愛するために>の中にはベーコンの自画像がいる。<サンチマン>はミロの点と線の世界の様。そして<朝と夜>はマグリットと東山魁の合作の絵を思ってしまう。僕は歌ってないけれど今度の新しいCDの<普通の男>にはジャコメッッティの針金ののっぽの男が浮かんでくる。彼が僕に書いてくれた歌の中に<マルドロールの歌のように>というシャンソンがある。これは題名でお分かりの通り世紀末の不思議な作家ロートレアモンの代表作<マルドロールの歌>に主題を得ている。ロートレアモンのこの<マルドロールの歌>はユイスマンスの<さかしま>と並んで僕が愛する二つの19世紀末の代表作品である。この<マルドロールの歌>を何とかシャンソンにして歌いたくてフランソワに頼んでほぼ1年がかりで出来た。パリで録音した一枚目のCDに入れたがあまりステージでは歌う機会が無くて1、2度歌ったきりでもう数年お蔵に入ったままである。僕が好きなこれらのフランソワの歌は日本でもあまりファンが多くなく僕のコンサートのアンケートにも上位10位に入った事が無い。10位どころかついぞ一度もどなたからも好きだとかあの歌がもう一度聞きたいなどとこれらのフランソワの歌についてのコメントは頂いた事がない。作者に申し訳なく思うが僕はそれでもこれらの歌がこよなく好きだ。”好きこそものの上手なり”というけれどこれは当たっていないのかもしれないと思ったら”下手の横好き”というのが浮んで来た。
”あーこわ!これやろか?!どうしよう!”という気持ちである。
こんなに不思議で気持ちがいい歌を好きになって頂けないのはひとえにきっと僕の力不足のせいだろうと思っている。
歌とは実にむつかしいものである。
これとは反対に僕自身はそんなに思い入れは無い歌なのにご贔屓の方が滅法多い歌もある。まさによくある恋のパターンに似ている。おもしろいことに初めはそんな気すらないのに何度もつき合っているうちに情が湧くとでもいうのだろうか?
毎回会う事にそんなに嫌悪も覚えないどころか今回はどんなアプローチで接しようかと不本意ながら考えたりしている。それでもやっぱり”愛しています”とは言いがたい!従来から僕が好んで歌いたい歌の殆どは多くの方からあまり支持を受けない
ことになっている。<なっている>というのもおかしないい方だがそのように思っている。<子供狩り>や<学校の帰りに>などのジャック・プレベールが書いたシャンソンやジャン・ジロドウの<テッサの歌>、ジャン・ジュネの詩にエレーヌ・マルタンが曲を付けた<死刑囚>それに中世の詩人リュトブッフの詩にレオ・フェレの曲がついている<哀れなリュトブッフ>etc,etc。。。辛辣であったりユーモアがあったりあるいは泣きたいくらい美しいメロディがつているものもあるのでフランス語と言う言葉の壁を遥か越えて人の魂に突き刺さるように響いてくるはずなのに僕はきっとそれらの歌の表や裏や中や外を皆さんにお見せ出来ていないんでしょう。表は地味くらいシックでも裏地に奇抜な色や柄を使っている着物や羽織りもただぼさっと羽織ったり着たりしているだけではその物の良さは他の人には決して見えまい。美しい立ち振る舞いの中に、あるいは時には走ったり熱くなれば脱いだり袖をまくったり裾をはしょったりした時に初めてその生地の流れる美しさや隠された美を目の前に見たり、垣間みたり初めて本当に美しいと思える瞬間を見る事が出来る。歌も同じようなものであるからこんなに好きな歌の良さを分かって頂けないのは僕がこれらを着こなせていない、要するに歌いこなせていないという結論に至っている。こうなればもっともっと着こんで、では無くて歌いこんで<アーええ歌やな〜〜>と言う声を聞く迄は絶対意地でもこれらの歌をやめずに歌い続けますわ。また一つ挑戦する事が出来た。歌い続けるための口実が出来たわけである。
フランソワにお礼を言わなければ!

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2003年12月31日 (水)

喉頭炎

今年最後の日本でのコンサートを終えてフランスへ戻った。
京都を発った日、京の街は雪に包まれ空には粉雪が舞っていた。
パリの空は一面灰色で覆われドゴール空港で乗ったタクシーのワイパーがしぐれ雨をそこかしこにまき散らしていた。
クリニャンクールからバルベス大通りを抜けて車はフォーブール・ポワソニエールに入る。このポワソニエールとは魚売りという意味である。
16、17世紀にはノルマンディーで取られた魚はこの道を通ってパリへ入ったという。福井から京都に鯖を運んだ<鯖街道>のようなものだろう。その頃はポルト・ポワソヌリ(ポワソヌリー口、鞍馬口のようなものである)というのがありそこからのメインストリートであったらしい。
タクシーは僕のアパートがある建物の前で止まり僕は大きな手荷物を抱えて降りた。タクシーの運転手が後ろのトランクに入れてあった僕の
スーツケースを引きづり出しながら<重〜い!この中に金塊でも入っているのとちがうの?>と叫んだ。事実今回はいつもより重くて36キロもあった。なにもたいした物は入っていないのに。
日本で過した日々、会った方々の顔、歌った歌の想い出がいっぱい詰まっていた。
重い荷物を引きずって中庭を通り抜けC楝のドアーを開けてエレベーターに荷物を積み込むと殆ど残っていないスペースに身体を細めて一緒に乗り4階へ。ドアーを開けてなだれ込むように家に入った。
クリスマスツリーの下で不思議そうにプレリードックのタローが立ったまま僕を見つめていた。僕は板の間に座り込み大きく息を吸った。
<ああ無事終わってよかった!>
いつもパリに帰ると一番に口をついて出てくる言葉だが今回は特にこの言葉に重みがあった。
いつも冬に旅をする時、それがコンサート旅行である時は特に風邪を引かないようにと苦しい程の注意をするようにしている。
まず毎年9月になると3か月にわたる風邪予防ワクチンを始める。
旅行中は勿論マスクをかけ眼鏡、サングラスもかけ(周りの皆はそんな僕の様相が怪しいというけど、僕のフランスの耳鼻咽喉科の先生は咳をする人の菌が目からも入るので眼鏡はかけるようにとSARSの折りに言っていた)電車の中で、右に咳をする人があれば車両を変わり、左に咳をする人があれば席を変わり、ご招待を頂くとご一緒の方々の中に、あるいはその方のお宅、ご家族にどなたも風邪を召しておられない事を必ず確かめ、不意に尋ねて来た友人が咳込んでいれば後ろをむいて喋ってくれと懇願し、外から帰ると必ず手を洗いうがいをし、ホットはちみつレモンは毎日欠かさず、生野菜を必ず食し、などなどなど。。。あーしんど!書いてるだけでも疲れてきます!とまあ、こんな苦労をして万全の予防に努めている。にもかかわらず今回の滞在中何処かで僕の喉に侵入したビールスは喉頭炎と化して滞在の間中僕を苦しめた。喉頭炎といってもかかる人によって症状はまちまちで僕に限っていえば最悪の場合、喉の痛み→完全消声(こんな言葉はないかも)→咳という一番歌い手にとっていやなコースをたどる。その上完全に声が戻るまでには1週間、咳が治るまでには最低2週間を要し全治3週間かかるという恐ろしいものである。この<恐ろしい>という言葉は声に自分の人生がかかっていない人にはきっと理解しがたい響きの様に思えるがたとえばその日1日のためにだけでも1年も前から準備に準備を重ねた主催者側の多くの方々が全力投球で用意されて来たその日、そのコンサートの当日にまるで学校を休むように<すんまへん、今日ちょっと声が出えへんので休ましてもらいます>とは口が裂けても天地が割れても(まあ天地が割れればコンサートも中止ですけど)絶対に口に出せる言葉ではない。なので<恐ろしい>ほんとうに考えてみただけでも足がすくんでしまうことなのです。
ちょっと話が横道に逸れましたが日本に着いて数日後突然喉の痛みを感じて朝目が覚めた。<えー!うそでしょう!どうしよう!>と1日落ち着かない時間を過し手もとにいざという時の為に持っているフランスの薬と日本の薬をなんども眺めてどちらを飲むか悩みに悩んだ末日本の薬を飲んだ。どちらも専門医に処方してもらったものだが、フランスの薬の方がはるかに強くて効果的なのは長年の経験で知っていても最低3日は続けなくては急にやめると良くない事もわかっている。
今回の滞在中は3日に1回の割りでステージがありステージの当日は一切の薬は飲まない事にしているので最低3日続けるフランスの薬よりも効果的にはもう少し穏やかな日本のものを服用した。この種の薬にはフランスのものも日本のものにもある種の催眠作用がある物が含まれているのでステージの当日は怖くて飲めない。
いつか友人のピアニストが出番前に風邪薬を飲み本番中に薬は効果を発揮した。友人は外国から来日していた高名なバイオリン奏者の伴奏をしたのだが演奏中殆ど眠気におそわれ何処を弾いたのかいつ始まりいつ終わったさえも分からない状態で演奏後逃げるようにして会場を出たという話を聞いて以来絶対当日はいかなる薬も飲まない事にしている。という訳で結局この薬も2日しか飲めずコンサートは続いた。その間何度も声が無くなる一歩手前まで来たが幸い本番は何事も無かったように務められた。が毎日のストレスはもう頂点に達するほどになりトローチをなめ、はちみつをなめ、うがいをし寝る前には翌日の無事を祈り翌朝目が覚めるとおそるおそる自分にとってのバロメーターである高音を腹式呼吸で<ほっ、ほっ、ほっ>と出してみる<今日もなんとか大丈夫そう>と自分に言い聞かせて1日を過ごす。
街ではいたるところで色んな呼び込みの人たちが大きな声で怒鳴っている。
喉にはなんの問題もなさそうに!<なんやほんまに!あんなむちゃくちゃに声出してんのに何の問題もあらへんやんか!>と腹だたしく聞こえてくる。こんな状態になると外へは出ず、電話にも出ず、少しの声をおしむらく守銭奴のごとく守声奴になりはてて、ただ声は畳の下にも壷の中にも隠せないのでひたすら黙して神に祈り仏に祈願し出来る限り他の事を考えて過そうと努力をする。それも報われず今回は夜中に物音一つなく静かに雪が降り積もるがごとくゆっくりとでも確実に毎日最悪に向かって症状は進んで後半には最大の敵<咳>が現れた。それでも何とかなだめすかしうそ八百をならべあげて騙しだまして(僕の喉が耐えてくれるように)最終番まで持ちこたえた。その間奇跡も起きてとにかくいずれの本番でも一度の問題も無く歌い終えられたのは不思議としか言い様が無い。こんな時人はこの宇宙を行き交う幾万の魂に守られている事を感じてしまう。
フランスへ帰る飛行機の中から見た白い空の中クリスマスツリーの様に輝く星達と一緒に手を振る無数の笑顔があった。
12月24日、今夜、元旦を家族で過す日本人と同じように大方のフランス人の友人達はクリスマスイブを親元で過ごすため皆実家に帰っていった。生ガキとオマールエビとフォワグラと白いブーダンと鴨のオレンジソース煮とシャポンファルシとブッシュドノエルと。。。。を楽しみにして。
でも僕にはこのテーブルの上でひしめき合っているあまたのごちそうよりも何よりも、あー無事おわってよかった!咽頭炎の捕虜にならなくて!

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2003年11月26日 (水)

電気配線との格闘

朝から奮起して電気工事に望んだ。工事と言っても、前のアパートからもって来た小さいシャンデリアを玄関に設置するための工事だが、引っ越し〜コンサート〜新曲などと、シャンデリアより大切な事(と、僕が順番をつけているだけだと声が聞こえている)があり、のびのびになっていた。

今日はお客さまが来られるので、玄関は一応それなりの雰囲気が無ければお迎えする方に失礼だと思い、「今日こそは必ず工事を終わる」と決心して、いつもよりも早く起きた。それに、今日しなければ、あさってからまた今年最後の日本のコンサートのため日本へ発つので、そのままになってしまって新年もシャンデリアなしで過す事になりそうなので(といってもお城にあるような豪華なクリスタルの吊り物を想像詩してもらっては困ります。僕の好きな1920年代のシンプルな黒の鋳物にすかしガラスの朝顔型の傘が4つついているという、いたって簡素なもの)。

でもその工事は、ただ天井にシャンデリアを吊るという作業だけではなく、入り口の手もとのスイッチでつけたり消したりする為、同時に電気の配線工事もしなければならないのだが、僕は電気の事はまるっきりわからない。今までに何度か一人で電球を取り替えたり簡単な事はした事があるが、こんなややこしい配線工事は初めてなので、おそるおそる始めた。フランス人は日曜大工の名人なので、少々の工事は皆各自でやってしまい、工事専門の人には余程の難問題しか頼まない。買って来たケーブルに入っている3本の電線をひっぱり出し、皮(?)をむいて銅線を取り出した。天井にケーブルを這わせて、接続の前に、重たいシャンデリアを吊るため電気ドリルで穴をあけた。300年経つこの家の梁の木は、コンクリートと同じくらい堅い。はしごから何度も落ちそうになりやっと完了。つぎにケーブルをおおざっぱに計り、電源からシャンデリアまで梁にそってはわせながら30センチ間隔でその電線を止めて行く。片方をシャンデリアの電線に接続するのだが、吊ってあるシャンデリアに食いつくように顔をつっこんで、ドミノという(日本語ではなんというのか知りません)両線を接続する小さい穴に、それぞれの導線を入れてはねじでとめるだが、導線は3色ある。なんで3種類あるのか考えても答えは出ない。幸い接続しようと思う2つの線はどちらも3色同じ色なので、迷わず同じ色どうしをつないだ。あとは電源の方もおなじ事をして出来上がるはずが、両方つないだ時点でケーブルが長過ぎた事に気が付き切る事にした。電気が消えていたので電気はその線に通っていないと判断して、ペンチで「ばさっ!」と同時に身体に電気が走り「ぎゃ!!」と大声を上げて梯子から落ちた。死んだと思って目を開けたら当たりは真っ暗、「ええ〜〜天国(地獄かもしれないのに)はこんなに暗いんかいな!」と一瞬周りを眺めたら、暗闇の中でうっすらと自分の身体が見え、まわりのものも見えて来た。僕は梯子から落ちて廊下のタイルの上に座っていて、目の前に裸の電線がゆらゆら揺れていた。

パニくった気持ちを落ち着けるために、コーヒーを入れてトーストを1枚焼き、かりんのゼリーを一杯ぬってゆっくりとほうばった。適度の甘さとコーヒーの苦みが口の中に程よく広がり、気持ちは落ちついて起きたばかりの事を考えてみた。ろうそくを一杯につけてゆっくり部屋を眺めた。これからどうしたら元に戻るのか。僕の知識も経験も、もちろん想像もはるかに越えていて、はなはだ心細かった。この家の電気配線が全部駄目になったとしたら、家の全ての壁を壊して配線を全部やりかえなければならないのだろう。なんと大変な事だろう! 工事の人はすぐには来ないし、ましてや壁を壊したら当然半月や1か月くらいの大工事になるに決まっているから、僕は到底あさってなんかに日本には発てない。これはまず何処に頼まなければいけないのだろうと考えた。魔法の棒が無いのが本当に悔しく思われた。

とりあえずもうすこし気分を落ち着けてと思って、今度は暖かいココアを作って飲んだ。身体が温まって少し気分が楽になった時、息子が学校から帰って来た。事情を説明して、明日から工事中はホテルに住まなければならなくなるかもしれないと、ため息をつきながら言った。息子は「ふ〜〜ん」と聞いていたが、僕の説明が終わると立ち上がり、電気計量器のあるところへ行った。

5分後、家中に明かりが戻り、闇夜が消えたかのような明るさが蘇った。息子は僕に「パパ、なんで今までこのヒューズ変えんと、1日中何してたの!?」とあきれ顔で僕の目の前を横切り、部屋に入ってしまった。ヒューズというものの存在を完全に忘れていた。何はともあれ、これで僕は明後日無事に日本に発つ事が出来る。人間だれしも完璧ではないんです!!

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2003年11月 4日 (火)

フランスに帰る飛行機で

10日前日本を発った日は肌寒くて雨が降っていた。寝不足で頭が重くて、だるい体全体を抱えるようにして、空港に行くため迎えに来た乗り合いタクシーに乗り込んだ。おずおずとやって来た朝に相反して、濁流のように道路に溢れる車と人々の群れを焦点が定まらない目でながめながら、すべてをキャンセルして布団に潜り込んでいられたらどれだけ幸せだろう、なんで律儀に起きて、今日どうしても日本を発とうとしているんだろうという思いが、なんども体全体を揺すっては消えて行った。

毎回日本を発つ朝には決まってこんな気持ちになる。前日の夜には、もう数日出発が遅れたらきっと爽快に発てるのにと思う反面、何日延ばしても結局前日までやり残した用事はあり、そのために寝るのは遅く、あるいはほとんど眠らずに翌日空港に向かう事もわかっている。タクシーが雨の中関西空港のターミナルに着いた頃には、後悔はあきらめにかわり、もう身体はすっかり出発モードになっていた。チェックインを済ませて出国検査所を通り、出発ゲートで搭乗を待つ。25年のフランス滞在中に、もう何十回、いやひょっとしたら100回を超えるくらいこの場面に自分が登場しているのに、毎回初めてのような少しの緊張を伴った気分で、このゲート前のいすに座っている。

1時間後に飛行機は飛び立った。狭い座席にシートベルトで身体を縛り、身動きも出来ず、未だ覚めない頭のまま、座席後部に備えてあるコンピューターの画面の中のカーソルを音楽に合わした。ハイドンのピアノソナタが、きっと疲れた身体に気持ちがいいだろうと思った。カーソルは間違ってポピュラー音楽に合ってしまい、昔聞き慣れた声と言葉使いが急に聞こえてきた。それがジャック・ブレルだとわかるまでに少し時間がかかった。「なんや今さらジャック・ブレルか。もうええわ」と思いチャンネルを変えてみたけれど、耳に聞こえてくるのはジャック・ブレルばかりでどうしようもない。あきらめてしばらくそのままにした。

歌はマドレーヌからマチルド、オ・スイヴァンと変わって行き、気が付くと僕はすっかり、そしてどっぷりジャック・ブレルの歌の中に浸かっていた。le plat paysでは目の前に寒空が広がり、les flamandes の中フラマン地方の女性たちが伝統の衣装を着て踊っていた。懐かしき恋人達の歌、行かないで、レ・ボンボン。これらの3分から5分の歌の中に物語がある。幕が上がって場面が変わり、舞台装置も変わって1幕2、3場の芝居の幕が降りる。その中で僕達は老人の歩みに歩調を合わせ、アムステルダムの港で水夫と行き交い、見果てぬ夢を追う。

短いシャンソンの中で物語を一つ完成させるのは容易な事ではない、数あるシャンソンの作者の中、それに成功したのはジョルジュ・ブラッサンスとジャック・ブレルだけだと誰かが言っていたのを思い出した。ブレルの多くの歌の中では、一つの話が巧みに語られ、それが本当にうまく演じられている。ジャック・ブレルの歌の世界には体制に対する批判、ブルジョワジーへの皮肉、暗い現実をありのままに歌い、絶望に泣き、希望はあくまでも美しくおおらかに歌われている。同年代を生きたレオ・フェレの世界と似ているところもあるけれど、フェレのシニカルな世界には誰をも寄せつけない、救済のかけらもない冷酷さがある。「avec le temps,時のながれに」などは、暗闇の中、死へと旅立つような美しくも慈悲のない世界があり、僕自身歌っていても歌の終わりに近づくにつれて身体が凍って行くような気分さえ感じてしまう。でもブレルの歌の世界はもっと人間的だ。「行かないで」の絶望も「老人たち」の静かで重苦しい時間の流れにも某の暖かみが感じられ、でもなんとかなるに決まっているというか、誰一人手も差し伸べない奈落の底に落ちて行くような気分にはならない。ジャック・ブレルの歌には「救い」がある。

CD4枚分くらいの歌を聴き終えて、快い疲れを感じてヘッドホーンを耳から離し、窓の外に目をやると、一面真っ白なロシヤの上空を飛行機は飛んでいた。目の前にスチュワーデスがボンボンをいれた籠を差し出した。もちろんブレルのように「je vous ai apporte des bonobns(アメ、持って来ましたんやけど)」とは言わなかったけれど。あまりのタイミングの良さにボンボンをとる事も忘れてくすくす笑ってしまったら、「Qu'est-ce que vous avez a rire comme ca !? (なにがそんなにおかしいのですか!?)」と聞かれたので「Vous avez apporte des bonbons, parce que les fleurs sont perissables?(お花は枯れてしまうのでボンボンをもってこられたんでしょ?)」と言ったら、彼女意味がすぐ分かったようで「oui! les bonbons sont tellement bons!(そうです! 何と言ってもボンボンはおいしいので)」と、すかさず答えてにこっと笑った。この歌詞が出てくるブレルの「ボンボン」を彼女は知っていたようだ。

たまにはフランスの飛行機に乗るのも悪くないと、その日の朝の憂鬱な気分は何処かに消えて、その後すぐ支給された乾ききったサラダと殆ど容器の廻りに焦げ付いてしまっているラザーニャ、それに大量生産で作られたと思える無味無臭のカマンベールを一口で平らげてしまった。

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2003年10月 5日 (日)

「話す僕」との出会い

リーガロイヤルホテル京都主催のディナーコンサートが終わった。今年で12年目と聞き、正直なところ自分でも驚いている。

日本全国で僕を知っていただいてる方々を一度に全員お集まりいただいても、どこかの小学校の講堂にすっぽり入ってしまうほどしかおられない上に、コンサートに決まって来ていただける方はそのまた何分の一の人数だということを考えると、いくら京都が僕の郷里であるとしても、春秋二つの大広間を埋めるお客さまが毎年、それも12年もの長い間途絶えることなく来て下さったことに感謝するとともに、非常に嬉しい思いで一杯です。もちろん12年もの間、飽きずに僕をフランスから招聘してくださっているリーガロイヤルホテル京都さんあってのことなので、こちらにまず感謝の意を表さねばなりません。当時は日本にほとんど帰ってこなかった僕を呼び寄せて日本での活動の足掛かりをつけていただいたのですから。

現在の僕のステージしかご存じない方は(日本に帰ってこなかったのですから、ほとんどの方がそうでしょうけど)驚かれると思いますが、そのころの僕はステージ上ではほとんど喋らず、曲の説明を少ししてすぐ歌うか、全く何もしゃべらず歌い続けていました。流れて行く時間を縦糸にして、その上に色んな色合いを持つ「歌」という横糸を走らせながら、帯を織るようにステージを創ってゆくことが好きでした。喋ることで歌の世界が壊れ、流れが細切れになるようで恐くてできなかった。

もっともフランスではステージ上で長々と話す人はほとんどいない(漫談や寸劇の人は別ですが)。そんな僕にディナーショーという特殊な空間でのお話しを頂いた折、当時の企画部長はおっしゃった。「ワサブローさん、好きなようにやって下さって結構です。ただ一つ私どもからのお願いは、歌の合間に喋ってほしい。ディナーショーはコンサートとは違います。食事をしてお酒を飲んでくつろいだ雰囲気の中でお客さんはショーを楽しまれるので、どうぞそれだけは頭に入れてステージを作っていただけますようお願いします」。飲んだり食べたりしたあとは、眠たくなるかお喋りしたくなるのが人間の生理現象。そんな時に人の歌を聞く気にはならなくて当然だし、歌など聞かずに友だちと面白い話に興じる方がずっと楽しい。なんでわざわざそんな「業」のようなことをやらなくてはいけないのだろうと、ディナーショーが何であるかも知らない僕は、これは僕の仕事ではなくてムーランルージュなどの羽をつけた踊り子さんの世界だと思い込んでお断りした。結局周りから説得されて承諾はしたものの、当日が近づくにつれて喋らなければいけない恐怖で結構パニックになっていた。ステージは僕にとって日常を脱する異空間。どうすれば異空感覚のフランス語と現実感覚の日本語が同次元で同居できるのかが全く見えなかった。頭に浮かぶのは歌の説明のようなもので、これは、それ以前からも日本公演の時にはやって来たものだが、どう考えてもディナーショー向きではなかった。

前日夜遅く、焦る気持ちを紛らわせるために友人に電話をかけて愚痴るつもりが「よう、元気か! いつ帰って来たの! お前また重量オーバーに引っ掛かるくらい一杯の荷物もって帰ってきたんと違うか?」と聞かれ、僕は、フランスを発った日の話をした。ド・ゴール空港で重量オーバーに引っかかり、どんなに懇願してもカウンター嬢は木で鼻をくくったように(事実くくれるくらい高い鼻だった)「ダメです!」の一点張りに困り果てて、「こんな細く軽い体重の僕の荷物が4キロや5キロオーバーしたくらいでなぜダメなのか。飛行機は乗客も荷物も一緒に機内に詰め込むゆえに、体重と荷物全体の重量が問題になるはずである。隣のマダムを見て下さい。彼女の腰廻りだけでも優に僕の体重以上あるように見受けます!」と叫んだら、それがそのご婦人の耳に入り「あたしの下半身がどうしたんですの!」と食って掛かられ、事態は非常にややこしくなって、そのうちに飛行機の出発時間が迫ってきた。困ったチェックインカウンターの女性は「今回はいいですから、美味しいものでも沢山日本で食べて、太って帰って来なさい」と言って通してくれたという話をしたら、友だちは話の間中笑い転げていた。

笑いがおさまったので僕は真顔になって、「あした喋ることがなくて恐怖のどん底にいる。異空間は出たくない」と言ったら、その友達はまた笑いはじめて「喋ることがない? 異空間!? そしたら今の話しは何や!? お前の話はみんないつも異空間や! その何世紀も前の京都弁も!」とまた笑い、「あした成功祈ってるわ! はようもう寝た方がええわ!」と電話がきれた。

その夜、その友だちが、僕自身知らなかった僕の中にある扉を開いてくれた。その扉の向こうには、ちょっと風変わりな僕がいた。翌日のディナーショーは、僕自身一度も経験したことのない笑い声とスピード感の中で無事終わった。それ以来その「話す僕」と二人で作るステージが気に入って、劇場のコンサートにも「話す僕」が登場するようになり、今に至っている。時々一人になりたいと思うこともあるけれど、フランス語と京言葉が僕の身体に入り混じって入り込んでいるように、この二人の僕も実は複雑にからみ合って離せないのかも知れない。「歌は語れ、語りは歌え」というように、語りと歌は同じ譜面上に存在すると感じるようになってきた。

それでも毎回恐怖は訪れる。歌い手の「僕」の恐怖と話し手の「僕」の恐怖。ここから逃げるには、方法はただ一つ。押し入れに入って、ふとんをかぶって動かないでいることしかない。

東京公演が近づいて来た。押し入れには山のようにものが入っているので、どこに逃げようかなあ!

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2003年8月 2日 (土)

19世紀末から18世紀へ

パソコンが戻って来た。といっても、入院した僕のパソコンでなく、新しくパワーアップした白いiBookが手もとに届いたのです。以前のiBookは日本に持ち帰り、友人の手を煩わせて辛くも一命をとりとめ、今は京都で僕を待ってくれている(と思っている)。

先日の便りに書いたように、居住者の僕は電気製品を簡単に持ち込めないので、これもまた色々友人知人を煩わせ、フランスへ来られた方に持って来て頂いた。本当に言葉では言い尽くせない嬉しさと感謝の気持ちで一杯です。すぐにもここで報告しなければ心配して頂いている方々(がおられると信じていますので)に申し訳ないと思いながら、その後すぐ起きてきた面倒な出来事に煩わされているうちに日が経ってしまいました。

このパリのアパートに立ち退き宣言が下されたのです。18年間住んだこのアパートが急に売りに出されることになり、「買う」か「出て行く」かの決断を迫られました。急に「買う」か「出て行く」かと言われても、パンやおにぎりを買うのとは違い、「ほな、ちょっと一ついただいときますわ」というわけには行きません。

この国の法律では、家主は契約が切れる半年前に借り主に「家を売りたい」と書き留め書簡で価格を添えて通達し、その報告書が届いた日から2カ月は熟考期間として、借り主に誰よりも先にその家を買える優先権が与えられる。でも2カ月が過ぎるとその権利は消滅し、家主は誰に売っても良いことになる。ただし借り主に提示された額より低く売る事は認められないことになっている。

僕のこのアパートの家主は大きな保険会社で、19世紀末に建てられたこの建物を丸ごと一軒持っていたので、ここに住んでいる20世帯のただ一人の大家でした。フランスの通常の契約では、家具なしが3年、家具付きが2年契約となっていますが、一軒の建物が一人の持ち主の場合、契約期間は6年になります。もちろん契約更新の場合は必ずしも家賃は上がらず、ましてや日本のように礼金などという不届きな(借り主から見ると)ものは請求されないし、また借り主は立退料も請求できません。

僕はその6年の契約で住んでいて、3回目の更新が今年の10月になされる予定でした。なのに、急に事態が変わり、引き続いて住めなくなってしまいました。もちろん「そうどすか、ほな、買いますわ!」と言えばいい話で、引っ越しという面倒な事態も避けられるのですが、残念ながら数千万円もするものを買えるお札も甲斐性も持ち合わせてはいないので、この長年住み慣れた城を明け渡すことになりました。8月末引っ越しと決まり、一抹の寂しさとともに、今まさに毎日増えていく段ボールの山に囲まれて初めての引っ越しの体験を始めたところです。

20年近くも家賃を払い続けたのに、僕が「買わへん、買えへん」とわかると、家主の態度は一転し、1日も早くできるだけ高い値段で他の人に売るべく、毎日ひっきりなしに買い手候補を連れて我が家を訪れてくる。法律では週に2日だけ、それも約束の時間だけにと決まっているのに、そんな事はおかまいなしで1日に何組も連れてくる。フランス人たちは土足で踏み込んでくるので(僕は日本人なので家の中では靴を脱いで暮らしていますから)、何となく、商売に失敗して家を空け渡さなければならないために、次から次へと債権者が出入りしているような気分になってくる。

その間をぬって、僕は段ボールと格闘しています。べつに御殿に住んでいるわけでもないのに、「なんでこんなものがようけあるのか」と思うくらい、色々なところから色々なものが出てきて、すぐに段ボール箱がいっぱいになってしまいます。息子の写真だと思ったら、僕の20年前の写真もありました。

今住んでいるこのアパートは、オスマン計画の時に通されたエチエンヌ・マルセル通りと同時に建てられた建物で、「1895年」という字が玄関に建築家の名前と一緒に刻まれています。僕は19世紀末が何につけても大好きで、絵画も音楽も建築も1800年末から1900年の初頭に作られたものに敬意とあこがれを持ち続けています。そんな僕にとってこのアパートで暮らすことは、例えばユイスマンスと同じ時代に生きたような錯覚とその時代を共有する喜びを与えてくれるものでした。

その世紀末を離れ、9月からの僕の新居は2区から10区に変わり、建物も19世紀末から18世紀に一挙にさかのぼり、1760年頃の建物に住むことになります。フランス革命以前、ナポレオンが皇帝の座に着くより前、モーツアルトが22歳の時に母のマリア・アンナと一緒にパリに来た1777年より少し前に建てられた建物です。余談ですが、モーツアルトのお母さんが1778年に亡くなった館は、僕の今の家からも新居からも歩いて15分くらいのところにあるので、そのサンチエ通り8番地の前を通る度に「ここ、モーツアルトも歩かはったんや!」と胸がおどります。

僕の新居が建った18世紀末は、日本では江戸時代、田沼意次の時代で、もう240年以上(!)の時が流れています。もちろん内装はリメイクされていますが、外枠や家の内部、各部屋の天井にある古い木の梁はその当時のもので、世紀末とは違った空気が流れています。僕は京都の生まれ育ちなので、何世紀も前の建物に囲まれて育ち、「古い」と言うことにはいささかの驚きもないのですが、そのほとんどはお寺や歴史的建造物としての建物であり、江戸時代半ばの建物に普通に暮らしている人を知りません。そういう意味では結構わくわくする反面、「崩れてきいひんのかな?」とか「あまたの怨念が家の中に充満してるのと違うやろか?」「御払いしんでもええのやろか?」と一抹の不安もありますが。

まあ何はともあれ、この引っ越し、この段ボールの山から一日も早う解放されたいと願う毎日です。10月17、18日の天王洲アイル、アートスフィアで何事もなかったようにステージに立っていましたら、パリで引っ越しの際に段ボールを抱えて階段から落ちなかったということですわ!

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2003年7月29日 (火)

日本の梅雨とフランスの猛暑

僕は長い間、日本の「梅雨」というものを忘れていた。単純に、雨がよく降ってうっとうしい季節だと思っていた。幾日も雨が降り続いた今年の6月初旬、僕は25年ぶりに京都にいた。

閉め切ったマンションの部屋の外では「ザー」という雨音しか聞こえず、部屋の中の湿度は日増しに高くなっていったが、不快さよりも、この絶え間なく空から落ちてくる幾千万の雨粒のはねるような音が心地よく、いつまでもいつまでも、この音とともに湿った空気の中にこうしていたいと思った。

次の日も雨が降っていたけれど、用事ができて外出して戻ってくると、窓辺に掛けておいたジーンズが雨に打たれたように湿っていた。てっきり、窓がきっちり閉まっていなくて吹き込んだ雨でジーンズが濡れたのだと思い、あちこち全ての窓を調べてみたけれど、どの窓も一寸の隙間もなくきちんと閉まっていた。そこで初めて「気候」いわゆる「梅雨」のしわざだと気が付いた。

もちろん、僕はフランス生まれではないので、日本の梅雨を知っているはずだけれど、日本に住んでいた頃は、古い京の町家だったせいか、あるいは僕が若くて湿気のことなんぞ気にも止めなかったのか、とにかくこの家全体に張り付くように滲みいってくる湿気の存在を、今回の滞在で初めて知った。地面をゆっくりと這う蛇のように音もなく、「湿気」は部屋に侵入し、僕の身体にまとわりつきながら湿った空気を吹き付けていく。吹雪の夜、白い息を吹きかけて茂作を殺した小泉八雲の「雪女」を感じた。

でも、ここではもちろん寒くはならず、じんわりと、でも確実に暑くなっていく。身体全体が産毛を生やした熱帯林の大きな葉っぱで包まれているような気がした。次第に暑くなった身体から汗がにじみ出る。まるでサウナに入っているような気分だ。団扇を出して扇いでみる。ふっ、ふっと小さな風が生まれて顔に当たってくる。また、ふっ、ふっと扇いでみる。静かな音が部屋全体に広がり、さわやかな気分になる。しばらくこうして過ごした後シャワーを浴びた。新陳代謝さえ感じて気分が良かった。

この時期、こうして湿度の中で水気を一杯身体に保って過ごした人の肌の輝きは、ヨーロッパの低湿度の中で太陽に焼かれた人の肌よりもずっと瑞々しく、若しくて美しい。特に女性の方々には、クーラーを切って団扇で過ごしていただきたい。

今、こうしてパリのアパートでパソコンに向かっている。7月末から8月にかけてのパリの街は気持ちがいい。フランス人のほとんどはバカンスに出かけて街が静かになる。車の量も通常の半分に減って、道も急に広くなったように思える。今年のパリは恐ろしく暑い日が続いている。35度を超す日が幾日もある。こんなに暑くても湿度は日本の半分である。が、だから気分が良いかと言うと「とんでもない」と答えてしまうほど辛い、少なくとも僕は、個人的には日本よりもはるかに過ごしづらい。

フランスの住宅はほとんど石造りの建物なので、昼間の太陽熱を吸収し、夜になっても冷めずに熱がこもり続けてしまう。湿度が少ないぶん砂漠にいるような、またサウナに例えれば(サウナに通じているようですが、今まで2回しか行った経験がないのです)、焼いた石が積み上げてある「からからサウナ」にいるような具合で、のどは乾くし汗は出ないし、まさしく熱く焼けたオーブンの中にいる事を想像していただければ、どのような感じかおわかりいただけるでしょう。

こんな暑さの中でも、道行く人の中に帽子をかぶっている人は見られない。
ましてや日傘などはフランス人にとって印象派の画家の絵に出てくるような前世紀の遺物であって、さしている人は滅多にいないし、間違っても白や黒の手袋、それもロートレックの描いたイベットギルベールのお気に入りだったようなものをこの夏の暑い盛りにはめていては、必ず好奇の目で見られること間違いなしである。フランスは1年を通じて日照時間が短い。その短い間に出来るだけ太陽を吸収したいと思うのだろうか。とにかく皆んな焼きたい、焦げたい思いで一杯である。小麦色(と言うよりも、焼きおにぎりに近い)に焼けた肌は、フランス人にとって魅力的であるだけでなく、特にバカンスが終わった秋に、いかにリッチなバカンスを過ごしたかと、隣人、知人に誇示するための不可欠な要素にもなっている。

こんなフランス人、それもパリジャンに格好の「焼きどころ」が身近に現れた。

フランス語で言う「カニキュル(猛暑)」を少しでも快適に過ごせるようにと、今年もパリ市が主催する「パリプラージュ」が、7月20日から8月17日まで、ユネスコの世界遺産に指定されているセーヌ河畔で、ルーブル美術館前の芸術橋からシューリー橋までの車道3kmにわたり行われている。

この期間、セーヌの河畔は歩行者天国となり、3000トンの砂を持ち込んで作られた砂浜や芝生広場ができ、椰子の木やデッキチェア、それにハンモックまで並べて、朝の9時から夜の10時半まで解放している。それも無料で。セーヌ海岸と化したそこでは、人々は水着姿で特設浜辺で寝そべり、ロッククライミングやボール遊びに興じる。さらには、ジャズやサルサなどのコンサートを始め、水に浮かぶ劇場や木陰の図書館にも出かけられるというので、バカンスに出かけない人や観光客でにぎわっている。もちろん、水着で横たわる人々を橋の上からゆっくりと眺めることもできる。眺められるために寝そべっている人も多い。特にパリには、男も女もその筋の目を意識している人が沢山いておもしろい。夜の11時になれば、エッフェル塔に魔法がかかったようにきらきらと輝く星が一面に降り注ぎ、セーヌの浜辺でつかの間の真夏の夜の夢を見ることになる。

京都の友人に電話で、この「パリ・プラージュ(プラージュはフランス語で浜辺の意味)」のことを話して「これ、今のパリ市長ベルトラン・ドラノエの発案なんや。京都も、鴨川でちょっとこんな気の利いたことやったらええと思わへんか?」そしたら友達は「京都も鴨川で夏には催しやってるよ」「へえー、なにやってるの」「お前知らんのか? 金魚放してつかみ取りや」文化の違いやろか?。。。。

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2003年5月30日 (金)

マックが壊れてしまった・・・

僕の愛用しているiBookが動かなくなった。丁度4月のコンサートで日本に戻っている間に「マックが発作を起こして動かなくなった」と、パリにいる家族から連絡が届いた。いつものようにコンサートの恐怖がじわじわと身体の中に浸透し、血液の流れによって、腸にも胃にも心臓にも、それから脳のいたるところにまでアドレナリンの分泌が始まっていた(ように僕には思える)ころに知らされたこのニュースのおかげ(?)で、恐怖のアドレナリンは急速に分解し、こわばりかけていた五臓六腑の筋肉は正常を取り戻したけれど、今度は胃の下のあたりに心配の洞窟が出来て、そこに空気が通るたびに痛みの混じった冷たさを感じた。

コンサートの恐怖はどこかに飛んで行ってしまったけれど、動かなくなった我がマックの状態を考えると、すぐにでもパリへ戻り「大丈夫かしっかりせえ〜」と手を握りたい(手がないのはわかっています)心境のまま、距離と経済的な理由に遠くへだてられて時間が流れていった。この僕の愛用のiBookは、数年前に日本から連れて帰ったもので、僕にとってはまさにドラえもんのどこでもドアのごとく、フランスに居ながら瞬時にして日本だけでなく世界のどこへでも出掛けて、誰とでも話をすることを叶えてくれるものだ。そして、日本〜フランスの物理的な1万kmの距離を忘れさせてくれる、素晴らしくかつ現在の僕の生活には欠く事のできない人というか物になっている。そのため、突然の病気は僕を「羽をもぎ取られ天国から追放された天使」のような気分にさせている。まさに、ボリス・ヴィアンが言っている「人生は歯のごとく」と同じで、つまり「人生は歯のごとく通常その存在すら考えない、でも急に問題が訪れる、痛い! そうなると失いたくない、治療をする、心配もする、でもほんとうに完治をのぞむなら、その歯(つまり人生を)あなたから抜き(取り)去ってしまわなければならない」

この文章(詩)は心配性の僕のことをうまく言いあてている。この場合は「歯」だけれど「歯」を「マック」に入れ替えると「iBookの不在と人生に問題はつきもの」となってまさしく今の僕の気持ちとそれに対する「論し」の言葉になりなるほどと思って見たものの、iBookの不在がもたらす多くの欠乏、不便は解消されないし、どこでもドアは閉まったままである。

でも、ここで一言言っておかねばならない。僕はiBookをこの文章の「歯」のように粗末には扱っていないはずである、と言っても机の上にある(いる)のがあたりまえとなっていたことには違いないけれど。こんなことをくどくど書いていると「何で新しいのを買わへんの?」と思われるでしょう? もちろん新しいiBookを買うことは、経済的に何とかなりさえすればしごく簡単なことで、僕もそうしたい。

でもここには、皆さんのご存知ない問題があり、それゆえなかなか、このいとも簡単な手段の決断が下せない。フランスは消費税が日本とくらべて驚くほど高く、商品によって17〜40%にもなる。僕の必要とするiBookは、日本製でなければならず、これをフランス居住者が国内に持ち帰る場合には、税関で商品価格の30%もの税金を払わねばならない。ただし、旅行者には適用されず、コンピューターであろうがビデオカメラであろうが、本人が使用する目的のためならば旅行中は持ち込みが許されている。

日本で一度消費税を支払って買ったものに、また多額の税金をフランスに支払ってまで持ち帰りたいと思う人はほとんどいない。でもそれがイヤならば、だまって(つまり不法に)税関を通り抜け、止められなければ「おめでとう」という眠っているライオンの前を通りぬけるような危険を冒す方法しかない。もし万が一、税関員(90%が意地悪く、ほとんどが治外法権とも言えるような権力をふりかざして、やりたい放題をしていることは誰でもが知っている)に呼び止められて荷物を開けられ、中から未申告の電気製品、特にコンピューターのようなものが出てこようものなら、彼らは喜々としてあなたをつかまえてはなさず、「申告しなかった」として30%の税金はもとより、その上に多額の罰金がその場で課せられ、その場で支払いを要求されることになる。それも現金で!

この罰金がまさしく急に目を覚ましたライオンの一噛みとも言える恐怖の宣告で、金額に全く上限はなく、その税関員の気分で決まる。僕は今までライオンの餌食になった日本人を多く知っている。数年前亡くなったおばあさんの形見として虫の食ったミンクの毛皮のコートを持ち帰った友人は、税関で止められその虫食いだらけのコートを新品と言い張られ、あげくの果てに70万円相当のフランを巻き上げられてしまった。

そう、ほんとうに「巻き上げられた」という言葉がふさわしい。別の友人は、かずの子一箱の為に10万円を支払い、先日もウオークマン1台のことで文句を言ったら、罰金が一挙に5倍にはね上がり、8万円相当を支払うはめになったと、長くフランスに住む日本人男性が切れかかっていた。もちろん支払いを拒否すると刑務所が待っている。これでどうして僕が、日本から持ち帰るのをためらっているかお分かりいただけると思います。特に僕は「止められ」の常習犯で(理由はわからない)、10回中8回は止められ、「何処からきたか?」「荷物をあけろ」といつもシナリオは同じである。どうも南米あたりからくる麻薬密輸入業者に見られているふしがあるように思う。

数年前に止められた時には、荷物はもちろんのこと、ズボンのポケットまでもくまなく調べられた。運悪く義母にもらった「太田胃酸」がコートのポケットに入っていた。これは義母が病院で出してもらったもので、ご存知のように、日本の病院の薬は箱にも入っておらず紙の袋に入ったいかにも「それ」風だったため、その女性の税関員は喜んでその袋を僕の目の前につきつけ「これは何?」と聞くので「胃の薬です」と答えたら「あっそう。でもフランスで許可されてない成分のものが入っているかも」とうれしそうに水の入った容器に太田胃酸を溶かし、リトマス試験紙のようなもので調べ始めた。僕の頭の中を「以前、正露丸で刑務所に入った人がいる」という話が通りすぎて行った時、その税関員はテストを終え僕の顔を見てくやしそうに「ややこしい成分は一応ないから」とつっけんどんに言った。止められてから一時間が経過していた。もちろん同じ飛行機に乗っていた人達はみんな通過してしまい、僕だけが一人残っていた。旅の疲れと罰金か刑務所かの宣告の緊張でノドがカラカラ、言葉もやっとの思いで「メ・ル・シィ」とだけ言ったあと、パズルのようにきっちりと詰めていたカバンの中身がバラバラになっていたのをなんとかしまい、到着ロビーに出た。

僕のマックは今、日本に帰って治療を待っている、痴呆症で病院から出られないかもしれないので、悩んだあげく新しいiBookを買った。僕のメンバーの一人、野村おさむさんはマックのオーソリティでもある。彼が選んでくれた新しいマックはいつでもパリに発てる様にスタンバイしているのに、ライオンが怖くて未だにパリの僕の手元にはない。

「どなたか、パリまで持参していただけませんか〜〜〜〜〜〜!!」
と、叫びたくなる心境です。

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