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2008年11月12日 (水)

パリの家と京都の家

僕が住んでいる京都とパリの界隈の話をしてみたい。
パリでは10区という街に住んでいる。
北駅、東駅から近くまたオペラ座にも近い。
19世紀末にはブルジョワが沢山住んでいた街である。
マルセル・プルーストが書いた失われた時を求めてには
この界隈の様子が描かれている。
近くのイタリアン大通りには評判のレストランやカフェが
建ち並びそれらの店の前には当時の自家用車であった
御者付きの馬車がところ狭しと駐車していた。

Wasa1_2 僕のアパートの数件南の建物には画家のコローが住み
そのアトリエも近くにあった。
フォーレの美しいメロディ<ゆりかご>に詩を付けている
詩人のシュリー・プリュドムも
このフォブールポワソニエール通りに住んでいた。
ポワソニエール通りの歴史は古い。
パリの大方の通りは京都の通りと同じ様に古くからあり時折
名前を変えながら今に至っている。
このフォブールポワソニエール通りのポワソニエールとは
poisson ポワッソンすなわち魚を売る人という意味で
魚売り通りという事になる。
(ここでは男性名詞ではなくて女性名詞になっているが
必ずしも女性だけがこの時代魚屋だった訳ではない)
でも頭にフォブールが付いているので洛外という意味で
魚街道外通りとでも訳しておこうか。
中世には北の海で採れた魚は陸の交通を使って
パリの中央市場へ運ばれた。
いつも同じ路を通って来たので何時の頃からか
その道は魚街道と呼ばれ
馬車がパリへ入って通る路も決まっていた。
福井県から京都に魚、とくにサバなどが運ばれた路が
サバ街道として今も残っているのに似ていて面白い。
16世紀になりフランソワ1世が始めた要塞をその後
その義理の娘に当たるアンリ2世の妃カトリーヌド
メデイシスがチュイルリー宮殿の築構の際より強固な
ものにした、通称黄色の堀(fosse jaune)と
呼ばれる、パリの街を外敵から守る砦のような
石の城壁のが作られた。それによってその内側に
9区の延長で2区にあるポワソニエ通りは入ってしまい
その外にある路の続きはグランブールヴァール大通りが
取って代わってしまった。
この黄色の堀の西の一部がオランジュリー美術館の改築の際
地下から姿を現し改築の期間が大幅に遅れた事は
きっと皆さんの記憶に新しい。
この事も豊臣秀吉がお土居を作って京の街を洛中、洛外と
した事にも似ている。
その後19世紀になるとパリのオスマン都市大改革の際
ラファイエット大通りに道幅を取られたり地理的には
フォブールサンドニに属しているにもかかわらず魚街道の名は
残され、外というフォブールを付けて10区の魚街道は
フォブールポワソニエール通りとして生き残った。
今ではモンマルトル街とシャペル街を区切ってこの通りは
北に伸び18区では名前の<外周>は外されてそのまま
魚屋通りとなっている。
現在フォブールポワソニエール通りは10区と9区とを隔てる
位置にある。
この通りに寄り添って通っているパラディ通り(天国通り)は
通称陶器通りあるいはクリスタル通りとも呼ばれ
すぐ傍にある東駅に到着するロレーヌ地方からの
産物の一つである陶器やクリスタルの店が多くある。
2、3年前までは30番地にバカラの本社があった。
18番地に残っているショワズイールロワ焼きの本社の建物は
現在では国の歴史的建造物に指定されていて建物の壁などに
素晴らしい陶器をあしらったその当時の展示会場や
手すり付きの美しい階段を通りからでも垣間みる事が出来る。
フォブールポワソニエ通りをはさんでパラディ通り(天国通り)
の向かいにはブルー通りが伸びているがこの通りは19世紀には
アンフェール通りすなわち地獄通りと呼ばれていた。
なぜ現在ではブルー通りに改名されたのか
また別の機会にパリの通り名の歴史でもたどってみたい。
ちなみにフォブールとは17世紀の旧市街が隔てる市街地に
入らない界隈をこのように呼んだ。
現在のフオブールサントノーレ、フォブールサンドニ、
サンミシェル、サンマルタンなど多くのフォブールが
ポルトドサンドニ(サンドニ入り口)ポルトドルレアン
(オルレアン入り口)などと共に残っている。
なんだか解説が長くなってしまったが要するに
僕の今住んでいるパリの10区にある街は昔はちょっとした
名士が多く住んでいた。
でも何度も様子を変えながら今では本当に下町に
なってしまった。
パリは住む人がその街の様子を変え評判を替え
人種すら(国のという意味ではなく)変えてしまう。
古くはゴッホやルノワール、ロートレックや
イヴェット・ギルベールなどの芸術家がモンマルトルを
華やかな街にした。
その後ピカソやモディリアーニ、パスキン、フジタら
エコールドパリのアーチストと共にモンパルナスに
スポットが当たり戦後すぐにはジュリエット・グレコ、
ボリス・ヴィアン、屋根の上の牡牛のマリアンヌ・オズワルド、
サルトル、ボーボワールがサンジェルマン・デプレを
時代の先端に置いた様に今ではポワソニエール通りは少し時代に
取り残され時代の寵児はサンマルタン運河沿いやついこの間まで
超下町だった20区に集まり初めている。

Wasa7_2 オペラ座まで歩いて15分の都心だが
僕がその前に20年間住んだ、今はとびきりの若者の街に
なっているレアール(中央市場)界隈とは歩いている人の服装が
違っているのもパリの面白いところである。
そのパリの下町にある18世紀、
築200年のアパートに僕は住んでる。
そして京都は、これまた400年前までは京の街の
中心地であった上京区に僕の住まいがある。
話はパリよりももっと古くなる。
794年桓武天皇は長岡から都を京都に移し平安京を建てた。
現在の今出川通りと丸太町通の間にある一条通が
北限の一条大路、南限は現在のJR京都駅のもう少し南、
九条通り、東限であった東京極大路は現在の寺町通り
西限は阪急京都線の西京極駅と今の京都市街比べると
ぐっと狭くて現在京都市内にある北区、
左京区、右京区、西京区、南区の一部、山科区、東山区、
伏見区などは市外であった。
その中でも天皇の在所大内裏は、
北は一条通、南は二条通、
西は西大路通東はほぼ大宮通にまたがった
大きな宮城であった。
僕はこの位置よりも少し北にずれたところにある
北野天満宮の傍で生まれ育った。
2年前に京都に家を探した折偶然に見つけたのが今の住まいで
この平安京の大内裏の図に則ると丁度逹智門のすぐ傍
大蔵省があった場所にある。

Wasa2_2 通り名の裏門通は近くにある浄福寺の裏門に通じる通り
ということらしい。
家の前で衣冠束帯を付けた男やきらびやかな十二単、
あるいは小袿を着た女房たちが牛車に乗り降りしていたと
想像すると楽しくてしようがない。
きっと紫式部も光源氏も通っていたに違いない。
何度かの火災に合い1227年の大火で大極殿も内裏も
焼け落ちやがて再建されないまま天皇の住まいは今の御所に
替わってこの地は内野と呼ばれる荒れ地になってしまった。
その後1586年、天下を取った豊臣秀吉はこの大内裏跡地を
選んで邸宅と政庁を兼ねた聚楽第を建てた。
豪華絢爛な宮殿で何でも金ぴか好みの秀吉の趣味が
すべてに生かされていてさぞ今の時代では万博の
パビリヨンの様な周りの風景から飛び出したものだろうと
想像している。

Wasa3_3 聚楽第の全貌は屏風絵にしか見る事が出来ないが
聚楽第の遺構とされる建物がいくつか残っている。
下の写真は大徳寺の別名日暮しの門と呼ばれて
国宝に指定されている唐門。今年も1週間だけ拝観があった。

Daitokuji5_2 近年の発掘で金箔をあしらった瓦などが多くこの地に
出土していることでおおよその想像はつく。
既に大阪城に住んでいた秀吉にとっては関白になった今
朝廷のある京都に住む事がきっと天下人の明かし
だったのだろう。
僕の家はこの聚楽第の本丸の北と西の角あたりに当たっている。

Wasa4_2 平安京から600年のちこの地は再び政治の中心地になった。
千利休を近くに住まわせ北野天満宮で大茶会を催したり
天皇の行幸も行い天正遣欧少年使節の謁見も
ここで行われている。
1595年次男秀頼が生まれるとわが子可愛さに
関白職まで譲った甥の秀次に謀反の疑いをかけて高野山で
切腹させ妻子数十名を三条河原で処刑させたあと
聚楽第を壊滅して秀次の痕跡を地上からすべて
消し去ってしまった。
幻の様に現れた聚楽第はまた夢の様に消えてなくなり
この地も政治の中心から織物の街西陣として
栄えて行く事になる。
僕の少年時代には千本今出川から平安京の大極殿のあった
千本丸太町までが機織りの織り子さんたちで
常に賑わっていた。
江戸時代にそのスタイルが確立され全国へと広がった
むしこ窓をあしらった中二階のあるベンガラ格子の京町家。
この家がまだいくつも残っている上京の街中に
大正末期〜昭和初期にかけて作られた家を借りて
日本にいる時僕は住んでいる。
坪庭のある古い家であるが気に入っている。

Wasa6_2 ポワソニエール大通りに馬車が行き交ったプルーストの時代
京都西陣から職人の佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の
3人がフランスのリヨンへジャガード織の技術を
習得するために出かけていった。
パリにも立ち寄った3人はきっとオペラ座の界隈を散策して
ポワソニエール大通りのキャフェでコーヒを飲みながら京都を
想った事だろう。
パリ最古の建物はシャトレ広場の傍に建っている
サンジャックの塔で12世紀の建造物。
京都最古の建物は醍醐寺の五重塔、平安時代天暦5年、
西暦951年に建てられたものである。
京都とパリは僕の中で繋がっている。
同じ様に長い歴史を生き延びたこの二つの都の二つの街に
偶然僕がいるのが不思議でならない。
パリの市街地の建物と通りはほとんど100年以上
変わっていない。
京都は古い家が壊されマンションになり100円パークになり
国籍不名の醜い家が明治時代の美しい家を殺して
のさばっている。
こと。。以外二つの街にはセーヌ河と鴨川があり
いつも悠久の時が流れている。

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