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2008年3月19日 (水)

ジャック・ドゥエ〜jacques Douai

僕が30年間一度もレパートリーから外した事の無い
歌がある。
File la laine 糸紡ぎ、
1949年にロベール・マルシーが詩と曲を書き、
創唱者のジャック・ドゥエを世に知らしめた歌でもある。 
この歌を僕は33年前に京都で知った。
僕はその当時京都の北山にあったルルソン・キ・ボア
(l'ourson qui bois)という店でジャック・プレベールや
ルイ・アラゴンが書いた詩的シャンソンや
<宮殿の階段で>のような古いフランス民謡の様な歌を
歌っていた。
そこで一緒に歌っていたピエールというフランス人の
レパートリーの中には僕の知らない歌が一杯あった。
その中の一つが<糸紡ぎ>で、彼はギターを弾きながら
毎晩この歌を歌った。ルフランの美しい、シンプルな
この歌はジャック・ドゥエの歌だと教えられて驚いた。
フランスでもあまり知る人はなく、まして日本では
ほとんど誰も知らなかったジャック・ドゥエの名前を
僕はHHKの番組で初めて日本に紹介された時に
覚えて知っていた。
この番組では冒頭、パリの街頭にマイクを持った人が
通行人を呼び止めては<ジャック・ドゥエ、ご存知ですか?>と
尋ねていた。10人に6人は知らないと言い、
2人は聞いた事があると言い、残りの2人だけが
<知っていますよ、歌手でしょ>という結果だった。
ジャック・ドゥエは戦後1947年にパリのポムという
キャバレーでデビューした。
その後クロード・リベットというキャバレーで誰も知らない、
あるは遠く昔に忘れられた古い民謡や地方伝説の歌それに
色んな詩人の書いた詩に曲が付けられた詩的シャンソンを
歌って学生や知識人層の人気を得た。
レパートリーのほとんどが地味であるが美しく、
詩情にあふれ繊細な歌ばかりで
アカデミー・シャルルクロ・レコード大賞を
何度も受賞している。
そのNHKの番組では60年代になって夫人のテレーズ・パローと
組織していたバレエ・ナショナル・ポピュレールのことも
報道されていた。
僕は今まで聞いていた他のシャンソンとは違ったドゥエの歌う
美しい歌の数々に惹かれてこの歌手の事をもっと知りたく、
もっと他の歌も聴きたくて早速レコードを探しに行った。
1975年初めてのパリから帰って来た年の事である
コロンビアから出ていた3枚のレコードを見つけた。
いずれもシャンソン評論家芦原英了の解説付きでジャケットも
美しく品のあるLPだった。

Sany2 今から思うとこれが日本で手に入ったジャック・ドゥエの
すべてのレコードだった。
その中にはジャン・ジュネの詩にエレーヌ・マルタンが
曲をつけた死刑囚、劇作家のジャン・ジロドーの詩に
モーリス・ジョベールの曲がついているテッサの歌、
ルイ・アラゴンの詩にジョルジュ・ブラッサンスの曲で
幸せな愛はない、カナダのフェリックス・ルクレールの
山ウズラ、そのほか破れた網、青春は今、髪、
ある日君を失ってなどの珠玉の歌と共にサンマロでのような
民謡、それにジャック・プレベールの枯葉も収められていた。
ジャック・ドゥエが枯葉の創唱者である事はフランス人でも
知っている人はほとんどいない。
<日々の泡>を書いたサンジェルマン・デプレの伝説の小説家、
ボリス・ビアンは彼のライナーノートに枯葉は
ジャック・ドゥエが初めて歌いそれを僕は聞いているが
今となっては誰も知らないと書いている。
後になってフランスで初めて実際に聞いたジャック・ドゥエの
枯葉は誰のものよりも寂しくてまた同時に美しく僕にとっては
今まで聞いた枯葉の中で一番素晴らしかった。
今から思えば不思議な事にこの三枚のレコードには彼の1番の
ヒット曲である、<糸紡ぎ>は入っていなかった。
ピエールから教わった糸紡ぎがその後の僕の人生を
大きく変える事になるとは思ってもいなかった。
1979年に僕は再度フランスに渡った。パリで歌うために。
誰も知り合いはいなかったのでパリに着くとすぐ
日本で名前を知り、気に入っていた歌手すべてに
手紙を書いた。
歌を教えてほしい、歌う場所を教えてほしいと。
今考えれば厚かましく思い出すと冷や汗ものだが、
若かったその当時、僕は物怖じというものを知らなかった。
その上それぞれの歌手の住所は知っているはずはなく
すべてレコード会社気付で送っているのできっと
手元に届いたものはわずか1、2通だった違いない。
勿論誰からも返事は来ず強気の鼻っ柱が折れそうになったとき
1通の手紙を受け取った。
ジャック・ドゥエの秘書から届いたその手紙には
<ムシュウジャック・ドゥエは今カナダに公演中です。
出発前にあなたの手紙は受け取っていて是非お会いしたいと
申しております。帰りましたら連絡差し上げますのでしばらく
待っていただけます様に宜しくお願い致します>と
書かれていた。
それからしばらくしてドゥエから電話があって会う事が出来た。

Sany かれは遠い日本の若者(僕は20代で若かった)が
自分の事を知り自分の歌、糸紡ぎをましてやフランス語で
歌っている事にたいそう驚き、嬉しそうだった。
彼に出した手紙と一緒に送っておいたカセット
(カセットの時代だったんです)も気に入ったらしく翌月に
予定されていた彼のTV番組に早速招待してくれた。
このようにしてジャック・ドゥエとの縁が始った。
その当時彼は奥さんでバレリーナーだったテレーズ・バローを
病気でなくしたところで淋しい時期だったのだろう。
ジャック・ドゥエはベルギー国境近くリルの下に位置する
ドゥエ市(Douai)の出身でその街の名前をとり
アーチストネームとした。
ドゥエはパリ15区に住んでいた。
週末やバカンスになると古くから陶器の町として栄えたジアン
(gien)の田舎の家に出かけた。
パリから150km程離れたところにいつも
60年代のプジョーを飛ばして出かけて行った。
ほんとうに<飛ばして>という表現が合う様な運転で
常に160キロでビュンビュン走り前に車があると
ライトで合図をしてそこのけそこのけ、
という感じで走り抜けて行った。
僕は連れてもらうといつも前の助手席に座らされたので
結構怖い時もあり自然に自分の足で架空のブレーキを
踏んでいた。
静かで知的な感じの歌い方からは対照的な運転だった。
ジアンの家には梨やリンゴ、花梨、サクンボが実る桜の木と
一緒にクルミの木もあって大きな庭が広がり,秋になると
壁には葉が紅葉して美しいツタが絡まっていた。
内装も品良く趣味の良い調度品で囲まれていて、
ドゥエはこの家が今の様に美しくなるには10年、
魂が隅々まで宿るのに10年かかったと言っていた。
暖炉のある居間で昼間によくギターを弾きながら僕の歌に
伴奏をつけてくれて気がついたところは直してくれた。
贅沢な個人レッスンを受けていたわけだが
歌の事よりもとくにdiction(発音や朗読法)を直された。
鉛筆を口と水平に歯で噛みその状態のまま歌う。
口に鉛筆が入ったままそれでもきっちり聞き取れる様に
発声しなければならない。これは結構難しい作業で
舞台役者が必ずする発音のトレーニングでその後も僕はパリで
オルトフォニスト(orthophoniste,発音矯正師)に
何年か通った。
ジャック・ドゥエの歌に対する姿勢はとても真摯で厳しく
選曲に関してもまるでたわわに実ったさくらんぼの中から
厳選された美しく甘い実を見つけ出す様に時間をかけて
優れた歌を選りすぐり、もし詩に曲がついてない場合には
自分で作曲もした。
1985年頃からパリ、ブローニュの森にある
ジャルダンダクリマタシオンの劇場のディレクターとなり
バレリーナのエテリィ・パガヴァを人生の新しいパートナーに
迎かえて15年間世界各国と音楽、舞踊で文化交流を行い
彼自身パリでのコンサートを始めアメリカ、カナダに
歌いに行っている。その間このテアトルデユジャルダンでは
定期的にドゥエの歌を聞く事が出来た。
僕はパリに住んで2年目にドぅエの事務所があったヌウーイ市の
アパートに2年間住んだ。
白い花が咲くマロニエの木があった中庭に面していた。
事務所の秘書は独身のおばあちゃん、マドモワゼル レジャン 
初めて会った時礼儀から<ボンジュール マダム!>と言ったら
<ノンノン!!マダムではなくてマドモワゼルです!>と
直された。その当時もう70歳にはなってられただろう。
心の温かい几帳面な今はあまりフランスでは見かけなくなった
人の一人である。
今の大統領サルコジーが若くて
パリのお隣ヌーイ市の市長だった時代である。
ドゥエには引っ越しの時には保証人になってもらい、
滞在許可書の取得には保護者になってもらった。
テレビもラジオにも一緒に出て2年間毎日テアトルジャルダンで
歌えた事も大きな経験になり懐かしい想い出でとなった。
ドゥエの紹介で詩的シャンソンのジャンバスカと知り合い
彼の紹介でレオフェレのピアニストだった盲目の
ポール・カスタニエと知り合いフランス中を公演した。
糸紡ぎが取り持ってくれた縁はここには書ききれない。
数年前ある人に頼まれて糸紡ぎに日本語をつけた。
それ以来僕も日本語を交えてこの歌を歌っている。
2003年1月にドゥエから年賀状と一緒に新しくフランスで
発売されたCD2枚が届いた。
<ワサブロー、2003年が君にとって良き継続の年で
ありますように!これからも良い歌を歌って世界を旅して
家族と共に幸せな年であります様に!>
と添えてあった。いままで彼のレコードは一枚もCDには
なっていなかったので新しいCDの発売が嬉しかった。
しばらく会えなかったので元気な様子も嬉しかった。
もちろん新しい録音ではなく以前のLPからのアンソロジーだが
それでもドゥエの歌を聞いてもらえる事は嬉しい。
すぐにお礼の葉書を出した。
Poster_2 それから半年経った7月ジャック・ドゥエは亡くなった。
半年ガンと闘ってパリの病院でひっそりと逝った。
83歳だった。
日本に帰っていた時で葬式に行けなかった事が悔やまれて
仕方がない。
僕が初めて聴いてから30年たった今、日本でもドゥエのCDが
買える時代になった。
僕もITUNEストアーで買ってIPOD に入れて聴いている。
こうしてジャック・ドゥエの想い出を書いているうちに
彼の歌を集めてコンサートがしたくなった。
ドゥエはきっと喜んでくれるだろう。
日本の皆さんに彼が歌った美しい歌を
お裾分け出来るかも知れない。
夏までにはきっと。

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